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バットリを読む

はじめに

 404の共依存とそれに関わるあれこれ、いつか言語化したいと思ってました。 共依存ってなかなか強い言葉ですよね。野木先生がインタビューの中で404を 「共依存ぽい」と表現してからというもの(*1)、私の中にはずっと未解決問題として鎮座しています。 そうか、404は共依存だったのか。共依存。 確かに自分の手綱を甘んじて相手に握らせたり、必要とされることに自分の存在価値を認めるところは 共依存っぽいと言えそうな気がします。 9話から10話にかけての「仕上がりきったバディ」という感じのふたりは特に。 野木先生曰くさらにそこから、『やはりもう一度、個人に立ち返るというか、 ひとりひとりが自分の足で立つための最終回にしたかったんです』、 つまり共依存ぽかったふたりの関係性が最終的にはそうでないものへと変化したことが示唆されています。 10話までの404が共依存の関係にあったとして、では11話でいつの間に共依存を脱したというのだろう? 一体どうやって?ずっとそれが分からないまま、 バットリ後の圧倒的なカタルシスの説得力に任せて、考えるのを棚上げにしてきました。

 最終話の序盤と終盤を対比すると、ふたりには明確な変化が見て取れます。 伊吹のセリフ、「刑事の自分を捨てても俺はゆるさない」から「ゆるさないから、殺してやんねー」への 180度の転換に見られるように、ふたりの内面に大きな変化が起こったのは明らかに久住のクルーザー上で、 ドーナツEPによる昏睡状態の中描かれたバッドトリップ(以後〝バットリ〟)の前後と思われます。 ただしこれが『共依存っぽさ』からの脱却とどう関係するかというと、どうも判然としない。 404の変化を深堀りしようとすると、バットリをどう解釈するかという問題にぶつかります。

 本稿では、ふたりの関係の共依存っぽさたる所以、バットリがふたりにもたらしたものが何なのか、 さらにはふたりの『正義』という価値観について、これまでぐるぐると考えてきたことをまとめるべく努力してみたいと思います。

 引用: *12020年11月7日ザ・テレビジョンインタビューより

『共依存ぽい』とは?

 上記のインタビューにて、野木先生はふたりを「相棒に死なれた志摩」と 「恩人を止められなかった伊吹」と呼んだうえで、10話までの関係を『共依存っぽい』と評している。 6話・8話の過酷な展開を経た9話で、今にも壊れてしまいそうな伊吹と彼に心を寄せ続ける志摩の姿は、 実に見る者の心を惹きつける危うくも美しい関係だ。 そんなふたりが「間に合うため」に必死に前を向く姿を『共依存』と称されることには、うなずきつつも正直ちょっと冷淡に思える。 確かにお互いに過去・現在の痛みを開示して寄り添いあう姿は、 単なる仕事上の相棒を超えた親密さで、これを指してブロマンスと呼ぶ人もいた (「脚本家野木亜紀子の時代」より。私はあの記事の内容にあまり同意してないけれど。)。 ふたりは「満身創痍のままなんとかお互いをよりどころにして立っている」という感じだ。 けれども幸い、奇跡的にハムちゃんの救出に成功したことでその切迫感も薄れ、 久住捕獲というひとつの目的に向かって奔走するふたりは信頼で結ばれた理想的なバディそのもので、 『共依存』らしいネガティブさはあまり感じない。 愛情と言って過言ではない強い連結は9話で最高潮に達し、10話ラストで久住を取り逃がすまで、 傍目にも良好な関係のまま継続する。 ここでふたりの関係のアンバランスさ、多少の危うさを嗅ぎ取れるとすれば、 伊吹がゆたかに対して正義と不正義の話を『志摩がそういってた(だから正しい)』と表したシーンくらいだが、 志摩の教えを柔軟に吸収した伊吹の好ましい変化と思えば視聴者は目をつぶれる。

 404が共依存の関係にあったというなら、具体的に「何を」「どう」依存していたのか。 11話に至るまでの間に、香坂の墓参りへ向かう志摩の背中をそっと押す伊吹や、 収監されたガマさんに面会を断られた伊吹をそれとなく慰める志摩はきっといただろう。 家族のように親しい隣人へ向けられる、互いの痛みに寄り添い、手を取るやさしさ。 だがふたりの関係を共依存とまで呼ばせるのは、そういう心の柔らかい部分の話だけではないのかもしれない。

 結論を急げば、ふたりの関係の変化と11話のストーリーの核心について考えるとき、 野木先生が「正義とは何か」という問いをMIUの中心的なテーマに据えていたこと(*2) が関わってくるのではないかと私は考えている。 伊吹と志摩が互いに依託していたのは、刑事たる彼らの根幹をなす〝正義〟という価値観であり、 11話バットリの本質はそれぞれの正義に関する内省の物語であるという仮説だ。 以降は結論ありきの演繹的な展開が過ぎる上、正義という扱いの難しいテーマを掘り下げるため 私個人の思想信条みたいなものが多分に含まれる駄文になってしまった。 途中で合わないと思われた方はお読みにならないことをお勧めするとともに、 読んでいただく方の404を傷つける意図は一切ないですし、そうならないよう細心の注意を払います。

 引用: *22020年12月25日リアルサウンドインタビュー

刑事であるということ

 共依存とは、相手から依存されることに(意識的・無意識的に)自分の存在価値を見出す状態を指す。 おそらく依存する側・される側が固定している場合が多く、404で言えば『志摩が野犬伊吹のハンドラーである』 というのが自他ともに認める依存らしき関係かと思うが、 もう少し彼ら自身の本質的なところに言及したいのでこれは一旦横に置く。

 ふたりの自意識について考えると、それは刑事という仕事と不可分であるように見える。 機捜での再起を胸に秘めつつ、「誰かに間に合うこと」を「チョーいい仕事」だと笑う伊吹。 そして香坂の件を経てなお、「現場ならどこでもいい」と〝刑事らしい〟仕事に拘りを見せる志摩。 ふたりとも、名誉欲や出世欲を抜きにして、「刑事として人の/社会の役に立つこと」自体に価値を見出しているように思う。 このようなお仕事ドラマでよく描かれる価値観は、 往年の恋愛ドラマに代わって歓迎されるようになったある種のフィクションなのかもしれないなどと思いつつも、 働くことは自分らしく生きることであり、自己実現の手段であることは多くの現代人にとって多分ひとつの真実だろう。 少なくともふたりにとって、刑事の仕事は単なる労働ではなく、自分らしくあるために必要なのだと思う。

 では、MIUにおいて刑事であるとは具体的に何を指すのか。 公務員試験に通って警察組織で働いて税金から給料を貰うこと意外の部分で。 香坂やガマさんの件、そして11話のバットリで何度も語られたのが、「刑事を続けること」と「刑事を辞めること」だ。 伊吹と志摩がそれらをどう考えているのか、整理してみたい。

 『刑事とは、正義』と直截的に記したのは香坂であり、彼自身はこの言葉を過信する形で道を踏み外した。 実はこの言葉は志摩の教えなのではないかと私は思っている。 今現在の志摩は正義を詭弁だと切り捨てるが(メモブP34志摩一未プロフィール欄より)、 これは国家権力が人権を制限しうることに自覚的であるための自戒の意味であって、 その実本心では誰よりも刑事として正しく正義を行使することにこだわり、 拠り所にしているのが志摩という男ではないだろうか。志摩は伊吹の正しさに至上の価値を見出し、 「清廉潔白で在り続けること」に疲れたとき刑事を辞めたいと口にする。 伊吹もまた、刑事のやりがいは『正義感』のみだと1話で語っている。 刑事として役割を果たすために、正義が必要不可欠であることは作中で度々言及されるが、 警察は公共の安全と秩序を維持するための強制権限を持つ行政組織であって、 〝社会正義〟(人間が社会生活を営む上で正しいとされる道理)の実現は必ずしも直接警察だけが担う機能ではない。 それは、いうなれば警察官として働くための理念のようなものを指すのではないだろうか。 伊吹が言うように命がけの仕事にも関わらず薄給、公務員のくせにワークライフバランスも悪く、 心身を刷り減らすような辛い事件や社会のひずみに接する警察官という職業を定年まで勤め上げるために、 彼らには確かな拠り所となる信念が必要なのかもしれない。

 ところでここまで多用してきた〝正義〟という言葉は、扱いに注意を要する言葉だ。 正義を語るには、この世界はあまりにも複雑で多層的であらゆる配慮が要求されてしまうし、 自己反省を伴わない正義は振りかざした瞬間に暴力になる。 だから、メモブのキャラクター紹介ページで「正義とは」という項目を目にしたとき、 私はたじろぎながらも納得した。MIUは最初から、この概念を真正面から扱うつもりで作られたのだ。 MIUに登場する警察官は、ひとりの例外もなく皆それぞれの正義感をもって懸命に職務にあたっているように見える。 悪に手を染めるまでいかずとも、あたりまえに不真面目だったり小さな悪事を見逃したりする人間を含んだ 〝普通の人間の集まり〟として描くこともできたはずの警察組織を、 上から下まで徹底して〝ひたむきに正義であろうとする者〟として描いた点に、 言葉を選ばずに言えば社会正義の番人たる職業人として警察を描こうという強い意思を感じた。 3話の女性コールセンター担当、10話の交番の駐在さんら現場の警察官はじめ、 少しでも多くを助けようとシビアな判断を下す組織人まめじしかり、 腹黒い権力者というステレオタイプを見事に裏切った九重父しかり。 権力と実力があって、信念を備えた優秀なプロが、昼夜だれかに間に合うために走り回ってもなお、 間に合わないことが多々ある現実を描こうとするのは、 フィクションとしてドラマを受け取る視聴者に対してとても誠実で厳しい態度だと思う。 それには一体どれだけの覚悟が必要だったろうか。 なのでここでは私自身も、正義を扱うには到底筆力が足りないものの、思い切って正義という言葉を扱ってみることにした。 社会をひとの道理に適うより良いものにしたいと願う心、というような意味と理解して頂ければと思う。 9話メロンパン号の中でハムちゃんが語った言葉が近い。

伊吹の正義

 話を404に戻そう。

 伊吹と志摩、ふたりの存在価値は刑事でいることであり、そのためには正義という理念が不可欠と仮定した。 ここからふたりそれぞれの正義がどういうものかを掘り下げていきたい。 ふたりの人となりについて考えるならやはりまず名刺代わりの1話だ。 タイトル「激突」をとってみても、伊吹と志摩の何が衝突したかと言えばそれぞれの正義ではないだろうか。

 志摩曰く、常識がなくて野生のバカである伊吹。 初日から刑事の常識を無視した勤務態度で面白いほど志摩の神経を逆なでする。 逆に伊吹から見れば志摩は「ルールに縛られちゃう頭固いタイプ」だが、 こちらは一見して「刑事として正しい」性質と言えるだろう。視聴者の目線は、 一見刑事らしく振る舞う優秀な志摩の側に寄ったままで進行し、刑事としてはかなり型破りな伊吹の武勇伝(笑)が 次々に開示されていく。犯人タコ殴り事件に拳銃抜いちゃった事件、しまいには無邪気に正義感という言葉を口にして、 志摩から(間接的に)おまえみたいな奴が一番嫌いだと吐き捨てられる。 志摩の言うように、自分の正しさを疑うことなく犯人を殴ったり拳銃で脅したりすることはもちろん警察官としてはNGだろう。 そんな警察官が街中をうろうろしていたらと思うと、仮に彼らが全員正義漢だったとしても少し怖い。 しかし悪人に対峙したとき、自分にその力があれば行使してやっつけてやりたいという気持ちは誰にでもあるのではないだろうか。 ドラマやこども向けのヒーローもので展開される単純な物語は、きっと多くの人にとって受け入れやすい。 勧善懲悪とは、善きことを行い、悪を懲らしめて正すという正義の行いである。 綾野さんが伊吹の役作りのために少年漫画を読んだそうだが、伊吹の正義はまさに この幼い義侠心とも言うべき勧善懲悪の心が根幹にあると思う。 それは彼が持って生まれた資質か、育成環境がそうさせたのかは知る由もないが。

 ここで伊吹の正義を勧善懲悪と呼ぶことには首を傾げる方もいらっしゃるかもしれない。 なぜなら彼は、弱者や助けを求める人を助けようとするのと同じくらい、いやそれ以上に、 刑事の仕事を通して「昔の俺みたいなやつをまっすぐな道に戻そう」とするからだ。 2話の加賀見をはじめ、無実であろうがなかろうが犯人に寄り添い、助け出そうとする。 伊吹は〝獣〟だった自分自身がガマさんの導きによって〝善き者〟に生まれ変わったことを信じ、 どんな悪人も改心できると信じているからだ。 彼の拠り所となっているのは、ガマさんその人の存在というよりむしろこのストーリーなのかもしれない。 だから犯人との対話を求め、罪を償ってまっとうに生きなおすことを願っている。 どんな悪人でももとは善人であり、周りの人間が適切にサポートすれば正しい道に戻れるという無邪気なまでの性善説だ。 であれば〝懲悪〟は、悪を滅ぼすというより「罪を憎んで人を憎まず」、 法の下適切に罰を与えて悪の道から人を引き上げようとする態度といえるだろう。 伊吹の正義は、性善説の上に立った勧善懲悪のこころなのだと思う。

 ここで視線を伊吹の内面に向けてみたとき、彼が捨てた〝獣〟の部分もまた、 正義と切り離せない関係にあるのではないだろうか。 性善説を信じたい伊吹は自分の中の獣を完全に消し去ることを望んでいる。 しかし夢の中の久住(すなわち自分自身)に指摘されたとおり、〝すぐカッとなる狂暴な獣〟は伊吹の中で息を潜めており、 ひとたび彼の大事なものが奪われそうになれば簡単に牙をむく。 けれどこの獣、力任せに誰彼構わず傷つけるようなものでは必ずしもないように私には思える。 むしろそれは彼なりの、間違ったことや理不尽に対する反発だ。 伊吹の獣は、彼の正義と相克するものではなく、むしろその一側面に過ぎないのではないか。 喧嘩に明け暮れていたという学生時代でさえ、本人からすれば一貫して自分の心に従って正しい行動を行ってきた、 あるいは行おうとしてきたのでは。 性善説を信じる彼のヒロイックな正義がともすれば見せることとなる暴力的な一面が、伊吹の獣の正体ではないか。

志摩の正義

 勧善懲悪が往々にして陥りがちな私的制裁は法治国家において明らかに違法だ。 伊吹が拳銃を抜いた話を聞いた志摩がいっそ懲戒免職になれば良かったとこぼしたように、犯人がクソだから、 ムカついたからといって必要以上の暴力や脅迫をしていい理屈はない。 心情的には理解できるものの、だ。伊吹の善性は志摩にも私たちにも眩しく映るけれど、 私的制裁と表裏一体の危うさがある。 にも関わらずあの朝志摩を感動させたのは、おばあちゃんを家族の元に帰し、ちさちゃんの手に魔法のステッキを届けた、 まさしく伊吹の〝正義〟だった。 それは数時間前に志摩が嫌いだと吐き捨てた「正義」とはどう違い、どのように志摩を感動させたのだろうか。 そこから伊吹の正しさがいかに得難いものであるか、そして志摩の考える正義のありようが同時に明らかになる。

 繰り返しになるが、志摩は刑事として人並以上に正しくあることにこだわりを見せる。 理論を武器とし、何事も理詰めで考える志摩にとって、 正しくあることは刑事をやっていく上で死守すべき必要条件なのではないだろうか。 「自分のことを正義だと思ってるやつが一番嫌いだ」という彼のひねくれた物言いを紐解くと、 「すべての人を等しく助けるための手段であるはずの正義を目的化して、 本来守るべきものを蔑ろにすることは決して許されない」という自戒が込められているのではないかと思う。 志摩の頭にあるのはおそらくこれまでさんざん目にしてきたであろう、正義面して小さな(見えづらい) 不正義を犯す市民であり同僚であり、功を焦って違法捜査を行った香坂であり、 そんな香坂を『不正義を犯した』と追い込んで死なせた自分自身だ。 心から正しくありたいと願うからこそ、現実にはそうできないことの徒労感ばかりが蓄積して諦めと憧憬が入り交ざった態度になる。 そんな志摩からすれば、力をふるうための口実になり下がり誰かを置き去りにするのではなく、 誰かに(助けを必要とするものや、道を踏み外したものすべてに)間に合うための伊吹の正義は、 自分が本心で求めながら手の届かなかったものを体現したように見えただろう。 「機捜っていいな」と屈託なく笑う伊吹との出会いは、志摩にとってこの上ない僥倖だったのかもしれない。

 方便としての正義ではなく、目の前の一つ一つを拾い上げようとすることは、 ものすごく骨が折れるし報われない作業だ。 現実の世界で上下左右人の間で雑事に揉まれていっぱいいっぱいだし、一個人として手が届く範囲には限界がある。 そんな私たちにとって、それは殆どフィクションに等しい (少数を犠牲にしても多数を救おうとするまめじや、おばあちゃんの捜索を生活安全課に任せておけば良いと言った志摩のように)。 伊吹のように「普通こうあるべき」という社会規範や組織のルールを飛び越えて、 ただ目の前の誰かに間に合いたいというシンプルな思いに、志摩は諦めかけていた正義の本質を感じたのではないだろうか。

 対して志摩自身の正義は、自分含め人間の本性は少しも正しくないという前提に立っている。 人間とは本来私欲に満ちた利己的な生き物だという考えだ。 香坂の件がなくとも、罪を犯すひと、社会の周縁にいる人たちに触れ、分析し、刑事という職業人として俯瞰した結果だろう。 人間は社会を形成して生きるにも関わらず、社会にとって正しくないことをしてしまう。 それなら正しくあるように人間の行動を抑制するために必要なのは、法であり規則しかない。 志摩が執拗なまでにルールに厳しいのは単に性格のせいだけではなく、本来正しくない自分だからこそ、 刑事であるために厳しく自らを律することが必要だからだ。 本性を覆い隠して、理性によって非の打ちどころなく清廉潔白で在り続けなくてはならない。

 捜一時代、刈谷の言葉をどれだけ鵜呑みにしていいかは不明にせよ、 志摩自身はかなり利己的な人間であったことが伺える。 別に志摩が悪いわけではなくて、マッチョで利己的な集団の中でひとり利他的であろうとしても、 総取りされて一人負けするだけだ。性悪説に基づきルールに律された堅固な正義感とともにエリート集団の中で働く志摩は、 どれだけ効率的に犯人を検挙するかという成果主義に邁進していったに違いない。 そして香坂への当たり方は、志摩という人間個人の他人に対するあり方以上に、 成果主義が切り捨てがちなものを浮き彫りにしていると思う。 3話で九重に向けて語られたピタゴラ装置の下りは、きっと20代の頃の志摩自身へ向けたブーメランだ。 人は才能と自助努力によって自立して生きていくべきであり、そう出来ないなら個人の責めに帰すべきという、 現代の日本で幅を利かせている自己責任論だ。志摩も少なからずそういった考え方を持っていたと想像する。 人間を理屈だけで捉え、効率的に社会を回そうとすればするほど、正義は大きく強い方へ向かっていく。 同じ正義には違いないが、非効率にも目の前の小さなひとつひとつを拾い上げようとする伊吹の正義は正反対だ。

 スイッチを見逃し続けた志摩の正義は、香坂の死によって徹底的に打ちのめされることとなった。 自分含め人間の本性を法とルールで律して正しくあろうとしてきた志摩は根幹から揺らぎ、 香坂を置き去りにした自分自身への絶望を深めていったに違いない。 自分の正義では間に合わないものがあることを突きつけられて、志摩は完全に折れてしまったことだろう。 8話の伊吹が自分の正義の根幹を失ったように。 そこから試験場へ飛ばされ、所轄を経て機捜へ戻ってくるまでの間に志摩の内面でどんな変化があったのかは想像するほかないが、 1話の志摩は胸の内に傷を隠しながらも、現場の仕事にこだわり、機捜での再起に燃えているように見える。 そこに至るまでの間、彼は刑事としての在り方をさんざん模索してきたはずだ。 香坂のことを心に抱え、悪に対峙すればブーメランを食らいつつも刑事をやめないという選択をし続けてきた。 志摩が辞職を(あるいは自死までをも)考えなかったはずがないが、そうしないことを決めたときに、 彼は自分の正義のありようを変えていきたいと強く思ったのではないだろうか。 黒シャツとスリーピースを脱ぎ捨て、柔らかい雰囲気のカーディガンを羽織った志摩は、 香坂に間に合うための正しさをどう身につければ良いか、自分の本性と向き合いながら模索してきたことだろう。

 どんなにうちのめされて自己嫌悪でふらつきながらも立ち上がって次に向かう、人間としてのしぶとさは志摩の美点のひとつだ。 内に弱い気持ちを抱えながら強靭さを無くさない志摩一未が私は本当に美しいと思うし大好きなんですけど、それはまた別の機会に。

正義の依託

 自らの本性を利己的な人間と自認する志摩は伊吹を正しい奴だと評価してきた。 だがそれは志摩の教える規範を正しさとして受け取り、自身の指針とした伊吹も同じだ。 伊吹も志摩も、刑事として正しくありたい一方で、自分の性根は正しくない人間だと考えている。 そして、自分に欠けた正しさを相手の中に求める。

 志摩から伊吹への依存は、伊吹に比べると分かりやすく言語化されながら深まっていく。 前述のように1話ラストシーンで、すでに志摩は伊吹の正しさに対して憧憬を抱いている。 隣で伊吹の善性が他人の手を掴もうとするさまを見てきた志摩だったが、 ついに伊吹の正しさが志摩自身の内面向けられることになるのが6話だ。 伊吹は半ば強引に志摩の扉を叩き、過去の告白を慰めるでもなくただ聞き、 香坂が死の間際に行ったことを明らかにして、最後には自分は簡単には死なないと笑った。 屋上からたまたま見つけた6年前の事実は、リアリティあるこのドラマの中ではあまりに出来すぎた偶然で、 だからこそ書き手からのメッセージが際立つ。 刑事としての正義の在り方を間違えた香坂が、それでも自らの正義で誰かに間に合っていたこと。 間違えてもそこからまた正しくあることができる。そして正義の在り方はひとつではなかった。

 志摩はあの日、香坂が失意の中での事故死、あるいは自死を選んだのではなかったことを知って救われただろうか。 6話冒頭で本当のことなんか(誰にも)分かるわけないと言った彼は、 香坂が死んだ理由が明らかになって気持ちの整理がついただろうし、 香坂が女性の危機を救っていたことを知って光が差したような気持ちになっただろう。 それでも、アスファルトに座り込んで地面をたたく背中を見るたび、 「お前の相棒が伊吹みたいな奴だったら―」というセリフには、 このときの志摩は救われたよりも自分の至らなさを突きつけられ、同時に伊吹の正しさへの憧憬を一層深めたのではと思う。 6話後の志摩は、伊吹の正しさを導き手助けすることをいっそう自分の使命と考えるようになったかもしれない。 香坂が生来持っていた正しさを導いてやれなかった代わりに。このときが〝依存っぽさ〟に踏み込んだ第一歩ではないだろうか。

 対して伊吹はこの時点で依存らしい危うさをまったく感じさせない。 もともと伊吹の他人との距離の取り方はとても的確で心地よく、青池へ手向けられた言葉やハムちゃんに対する提案にもそれは現れている。

 そんな自立した人間である伊吹がはじめて揺らぐことになるのは8話だ。 前述のとおり私は伊吹の軸を、ガマさんその人というよりむしろガマさんによって更生された自分の成功体験、 つまり性善説に基づく「誰でも正しい道へ戻せる」という人間観であると考えている。 伊吹に身をもってそれを教えてくれたガマさん自身が、堀内に私刑を下したことでそれを全否定した。 堀内は何度許されても正しい道に戻れなかった。正しい行いと性善説の折り合いがつけられないことはままある。 『それでも、ガマさんは刑事だ』のあとに続く伊吹の台詞は、『だから絶対殺人なんかしない』だけではなく、 『だから間違えたやつを正しい道へ戻すんだ』だったのではないかと私は思う。 最愛の人を奪われたガマさんは、堀内を正しい道に戻すことを放棄してしまったのだ。 この信念の上に成り立つ伊吹の正義は、土台が粉々になって瓦解することになる。 連鎖的に伊吹が刑事で居続けることさえ危うくなってしまう。

 恩師であり、同居して身の回りの世話を引き受けようとまでしたガマさんが殺人者になってしまったことは、 それだけでも伊吹を傷つけて余りある事実だ。 ただそれ以上に、ガマさんが伊吹の思想に真っ向から反する行為をしたことこそ、彼にとって致命的だったのではないだろうか。 殺人の告白を聞いて『いつならガマさん止められた?』と涙を溜めて訴える伊吹は、 それでもまだ間違えたひとを正しい道へ戻せるという信念に縋ろうとするようで痛々しい。 伊吹が刑期を終えたガマさんを出迎え、〝正しい道〟へ戻せる日は来るのだろうか。

 8話最後、傷心の伊吹は志摩に支えられて仕事へ戻っていくが、ここでもまだ伊吹から志摩への依存らしさはない。 この時点でガマさんの件を通して相手の〝正しさ〟の依存を深めてきたのはむしろ志摩であるように私は思う。 8話の伊吹は志摩にどう映っていただろうか。分駐所で刈谷からガマさんの事故の経緯を聞かされ、 バラバラのパズルが望まぬ形に組みあがっていったとき、志摩は何を思っただろう。 「腐ってたオレをたった一人信じてくれた」ガマさんが殺人を犯したことを知れば、 伊吹の正義が危機的な状況に陥るだろうことを確信したはずだ。 志摩にとってただ眩しく尊いものだった伊吹の正しさは、このとき何としても守り通したいものへと変わったことだろう。 自ら証拠を集め、刈谷たちにかけあって根回しをし、伊吹本人にガマさんの説得に向かわせたのは、 辛い思いをさせてでもそれが伊吹の正しさを損なわずに済む方法だと考えたからではないか。 ガマさんが報復殺人を行った事実を知ってなお、伊吹の信念が持ちこたえられることを志摩は信じていた。 伊吹の〝正義〟を買いかぶっていたとも言えるし、信仰に近い彼の「まっすぐの道に戻された自分」 への気持ちを過小評価しているとも言える。

 何事もなければ、伊吹の受けた傷は日々東京の街を走り回る中で徐々に修復されていったかもしれないが、 刑事である限り伊吹はこの命題に晒され続けることになる。 ガマさんの件を契機に伊吹の正義の土台は徐々に、確実に侵食されていった。 攫われたハムちゃんを結果的に無事救出できたとて、根本的な解決にはならなかった。 メロンパン号の中で『ハムちゃんに(中略)なんかあったら、おれは絶対エトリを許さない』と言った伊吹からは、 エトリを正しい道に戻したいという気持ちは微塵も感じられない。 ただ正しい者として悪を滅ぼしたいと願う単純で強い欲求は、 そのまま澤部に向かいあわや半殺しの目に合わせそうになる(あわれ澤部くん…)。

 このあたりでの志摩の振る舞いは、信念を揺るがされ自己防衛のために膨れ上がって 今にも〝獣のように〟暴れ回ろうとしている伊吹の正義を、必死でルール内に繋ぎ止めようとしているように見える。 『安心しろ、俺も許さない』というのは、手段を選ばない相手であっても規範の中で裁けることを 伊吹に言い含める言葉とも取れるし、魔法の呪文のように繰り返す『間に合う、間に合う』は、 伊吹が信じる正義が無力でないことを祈るようだ。 この時もし間に合わなかったら…想像したくもないけど、野木さんがどう描くか興味はあるね…。

 共依存という切り口で見れば、危機的な状況に陥った伊吹の正義を守り守られる構造が、 ふたりの関係を共依存へ推し進めることになったことは疑いの余地がない。 伊吹の正義の獣のような一面は、ガマさんによる更生の物語に支えられる形で飼い慣らされて来たわけだが、 支えを失って、さらに目前で身近なひとが危機に晒されることで檻から放たれる。 結果的にその獣性がうまく働いてハムちゃんに間に合ったとも言えるが、 それも志摩のハンドリングあってのことだ。志摩がつきっきりで宥めていなかったら、 澤部が口をきく間もなくボコボコにしてハムちゃんに繋がる情報を得られずに終わっただろう。 (過去に犯人を半殺しにしたのも似たようなシチュエーションだったかも。)

 結果的に志摩がついていてくれたおかげで首の皮一枚でハムちゃんに間に合う事ができた伊吹には、 ガマさんによる更生に代わる新たな信仰が生まれたと考えても不自然ではない。 志摩が居れば俺は大丈夫、自分の正義が欲するままに振る舞えばいい。 獣にならないための自制心をそのまま相手に依託する伊吹が出来上がる。 志摩はそれを否定せず、むしろその役割を進んで担った。 描かれなかっただけかもしれないが、あれほど規律に厳しい志摩が澤部をリンチしかけた伊吹の暴走を 嗜めることもしないままなのは私情に流されすぎではないだろうか。 その後のふたりは、考え方や行動もなんだか似てきてまさに一心同体。 同じ獲物に向かって一緒に走っている間はいいが、そうでなくなったら。

 伊吹から志摩への依存は9話で完成したが、志摩の依存は11話でさらに別の局面を迎えることになる。 陣馬さんは昏睡状態、久住の捜査は行き詰まり、ルール内でやっていては打開策がないと思い詰める志摩。 伊吹を信じたことを悔いる心情を吐露するところは余裕のなさの表れでもあるだろうし、 志摩らしからぬ周囲への甘えのようにも思える。捜査一課のころの志摩なら10話の分岐点で迷わず久住を追ったが、 今の志摩は迷った末伊吹の判断に従って、結果的に久住を取り逃がした。 病院へ向かったこと自体間違った判断ではなかったが、強く大きい正義が無視したものがあったのと同様、 ひとつひとつに間に合うための正義が追いつけないものが確かにあるという葛藤が志摩を苦しめる。 伊吹の正しさに焦がれながらも、なりふり構っていられない強敵を追いかけるにはそれが足枷になり得るからだ。 志摩自身、こんな後悔は結果論に過ぎないことをよく分かっているだけに、 後日九重へ独白したように自己嫌悪を募らせるばかりだ。

 身勝手で利己的な自分と、自分自身が懸命に守り通した伊吹の正しさ、そして久住を何としても捕まえたいという目的。 志摩が伊吹を手放す理由が出そろった。 志摩にとって伊吹の正しさはもはや自分の一部と言って過言ではない。 自分が持ちえなかった伊吹の善性は守られるべき尊いものであると同時に足手まといになる。 それなら大事に奥多摩にでもしまってしまうのが良策だ。

 志摩にパージされた伊吹、おそらく少し前からガマさんのところに面会に行っては 何度も断られていることを志摩ちゃんはご存じなんでしょうか。 それを知っていて伊吹を一人にしたなら本当に桔梗体調のお説教3時間コースだよ君…。
 この頃から、久住の捜査が暗礁に乗り上げていることは確実に伊吹の内面にも暗い影を落としていく。 何しろグラグラしたままの正義の土台は支えがないまま、獣のような正義を否定されることもなく、 頼りの志摩にも突き放されてしまった。 久住に対して、正しい道に戻すべきかどうかという迷いは従来の伊吹なら抱きすらしなかったはずだ。 『どうしても赦せなかったらどうすべきなのか』、何度も匂わされるガマさんへの同調が、 次第に伊吹を危うい方向へ傾かせていく。それを正しく導く役割を請け負ったはずの志摩は隣にいない。 クルーザーに乗る前から既に伊吹は危機的状況にある。

 伊吹の正しさを保ちたいがために排除し、自分ひとりが不正義に陥っていく志摩。 信念を失って正義の獣を律することが出来なくなる伊吹。 バットリを目前にして、ふたりの共依存の危うさが露呈してしまった。 伊吹の正義に自分が持ち得ない性根の正しさを感じ、そこに無上の価値を見出す志摩と、 恩師との成功体験に替えて志摩を行動規範に据える伊吹の関係は、 確かにお互いに寄りかかりあって離れられない共依存の関係と言える。 自分には決定的に欠けた(と本人は思っている)正義の一部、 それ抜きには正義で居続けることができない重要な部分を相手に依託していることが、 ふたりの共依存の正体ではないかと私は考えている。

ふたりが恐れたこと

 いよいよバットリをふたりの軸=正義の切り口で捉える試みをしてみたい。 でもホント難しいんですよバットリって。 私は初見の時のショックと理解できなさを1年経った今も引きずったまま来ていて、 正直バットリを扱うファンアートさえ摂取できずにいます。このあたりでそろそろ分かった気になりたい…。 (その後無事見ることも描くこともできるようになって満足しました。)

 ドーナツEPを嗅がされて見た夢という整合性は備えているものの、 作品が高いリアリティラインを保ってきた中で突然始まったバットリ。 当時ネット記事(多くはSNSの声を拾っただけの便所紙にもならない軽薄な代物)では、 夢オチを指して陳腐で興醒めなどと評するものさえあって、私は歯噛みしながらもどう反論すべきかよく分からなかった。 この駄文はそういうものへの反論の意味もあります。 バットリとは何だったのか、そもそもなぜ悪夢という形をとる必要があったのか。 便所紙諸氏をオーバーキルする気概で、自分なりに読み解いてみたい。

 夢の中でふたりの内面に何が起きたのか、それを解釈するために、 いきなりだけどバットリ後の屋形船でのセリフに注目したい。 バットリを考えるために、まずは404のビフォーアフターを確認しておく。

 陽の光が差すクルーザーの中、九重からのLIMEで怒涛の復活劇が始まる。 悪夢の意味をゆっくり咀嚼する暇もないまま、軽快な劇伴をバックに息をもつかせぬ大捕り物を見せられた果てに、 久住に対する『許さないから殺してやんねー』『生きて、俺たちとここで苦しめ』がやってきて、 分からないなりに感じる説得力とあまりのカタルシスに眩暈がする。 さてこのふたつのセリフ、これこそが私にとってリアタイ時以来の大問題であり、 クルーザーに乗る前の二人の口からは決して出なかっただろう言葉だ。 たった数分前、伊吹の表情にはガマさんが被せられて久住を殺す勢いだし、志摩は刑事辞める気満々だったのに。

 『許さないから殺してやんねー』は、『刑事を捨ててでも俺は許さない』からの脱却であり、 『どうしても赦せへんかったらどうするん、殺すしかないんちゃうん』へのアンサーでもあり、 それまで伊吹を追い詰めていた葛藤に決着がついたことを示す。 そして『生きて、俺たちとここで苦しめ』からは、志摩自身も「生きて」、 「苦しくても人として正しくあることを手放さない」ことを決めたことが伺える。 繰り返しになるが、伊吹にとっては私刑に陥らず自分の正義を法と倫理のもとに律すること、 志摩にとってはここで苦しみながら正しく生きることと、刑事で居続けることは同義だ。 屋形船でのふたりのセリフは、自分の正義への確信を持ってこれからも刑事として生きるという意思の表明だと受け取れる。 クルーザーに乗り込む前、ふたりの正義はガタガタの崩壊寸前だったのにもかかわらず、だ。 運よく九ちゃんからの電話で目覚めたら死んだはずの相棒が生きていたからといって、あまりにも豹変しすぎではないか。 きっとあの悪夢がふたりの正義にとって何かの意味を持っているはずだ。 ここではまず久住の言葉に注目して、夢の内容を深堀してみたい。

 伊吹と志摩は、悪夢の中でそれぞれが一人きりで久住に対峙する。 久住との対話は実際にはふたりの自問自答であって、 メフィストフェレス久住が悪夢の形でふたりに見せるのはそれぞれが内心で最も恐れているものに他ならない。

 まずは志摩だ。バットリ前、現実世界で志摩が行ったことはどれもぎりぎりルールの範囲内。 応援も呼ばす単身相棒を追いかけて敵の懐に飛び込みまずい状況に陥ったのは大失態だが、 昏睡する相棒を目にしての焦り故でありこれも恐らく規則に反するものではない。 では夢の中ではどうか。どこまでが警察の内部規定に沿うのか、正当防衛にあたるのかは不勉強のため分からないが、 相棒が殺されそうになったのを止めるために銃を抜くのも、 後ろから銃口を向けられた不利な状態で発砲するのも一概に不法行為とは言えないと推測する。 夢の中でも志摩は志摩、ちゃんと規則に則って行動している。だから規範としての正義で彼のバットリを読み解こうとすると、 どうもしっくりこない。

 バットリを見直すと、久住が志摩を追い詰める言葉に少し違和感を覚える。 この久住が志摩自身の写し身であるなら、もっと志摩らしく理詰めで揺さぶりをかけてきそうなものだ。 「この状況がいかに不利か」「協力すればどんな旨味があるか」といった具合に。 だがこの久住は、『人殺したら上司も同僚も皆悲しむ』『伊吹が不幸になる』ことを責める。 他人の事なんてどうでもいいとうそぶきながら、志摩の恐れが示すのは人間臭くて情に厚く、 社会の中でより良きものとして生きようとする人間の考え方だと私は思う。 このあたり、志摩の人格形成には大家族の次男として幼少期から兄弟たちと育ったことも大きく影響しているのかもしれない。 自分のせいで皆を不幸にするという志摩の恐れは、利己的な本当の自分のせいで皆を悲しませたくないという、 人間が社会性を獲得し始める段階で生まれる類のとても情緒的で根源的なものに思える。 同時に、この素朴な「正しさ」は、まさしく伊吹の持つ美点と通じるところがある。 6話で『お前の相棒が伊吹みたいなやつだったら…』と語りかけたように、 志摩が恐れているのは伊吹のような正しさを自分が持ちえないことであり、 バットリはそのことを志摩に突きつけているのではないか。

 一方の伊吹は割とわかりやすい。伊吹の恐れはこれまでもハッキリ言語化されてきていて、 久住は伊吹の葛藤をそのままトレースした強い言葉で挑発してくる。 (志摩と伊吹双方の夢、久住の態度の差が結構あって面白いですよね。) 「自分みたいなやつを正しい道に戻す」という信条をけなげにも繰り返す伊吹に対し、 『ホンマに戻せるん?』『どうしても許されへんかったらどうするん?殺すしかないんとちゃうんか?』という問いは、 伊吹にとって自分の正義が覆されることへの恐れであり、 「昔の俺」「狂暴な犬」である自分からはどうやっても変われないのではないかという疑念と表裏一体だ。 伊吹の正義の是非が「クズは変えようがないのか」という命題の真偽にかかっている構造になる。 そしてそれに続き、志摩の死がこの命題が正しいことの証左として久住から提示される。 伊吹は昔と変わらず狂暴な獣のままであってその結果相棒が死んだのだ、と。 逆上した伊吹はためらいなく久住を撃ち、暗転…これも伊吹が未だ「すぐカーッとなる狂暴な犬」の証しだ。 悪夢の中での一連の流れは、畳みかけるように何度も「クズはクズのまま変われない」ことを提示する。 どんどん追い詰められていく伊吹の気持ちを思うといたたまれない。

 この状況で伊吹が丸腰の久住を撃つことは恐らく正当防衛に当たらず、発砲要件も満たしていないだろう。 少なくとも致命傷を避けるべき場面のはずだ。 私的復讐のために規則を破ってしまうことは、かつての信条を自ら捨てることであり、 肯定したくなかったガマさんの行為を肯定することであり、同時に志摩の教えを捨てることに他ならない。 志摩が息を引き取る前に『殺すな』と絞りだした声を無視して銃を撃つことは象徴的だ。 伊吹の中の獣…あえて〝正義の獣〟と言いたいが、その獣が正義の必要条件を踏み越えて、 もはや正義ではなくなってしまうことを伊吹は恐れている。 前段の「クズのままの自分」と「正義の獣の暴走による私刑」は正反対のように見えるが本質的に矛盾するものではなく、 ある意味連続性のあるものではないか。 伊吹の言う〝クズだった自分〟には、正義感の一部という側面がたぶんあったのだと私は思う。 伊吹の正義の在り方を考えながらバットリを反芻していると、 正義と不正義の境界線がどんどん曖昧になっていくような気さえしてくる。

 以上のようにそれぞれが相棒に委ねて自分自身で追いかけることを諦めた正しさ、 自分ではその正しさを持ちえないことへの恐れを、ふたりはそれぞれのバットリの中で真正面から突きつけられている。 現実で本当に志摩が死んで久住を殺してしまったら完全にバッドエンドだし、 そもそも日本の警察は9割が銃を抜かないので、 実際にドンパチ始めてしまうと物語が一気に現実から乖離したものになってしまう。 ふたりの核心にある正義を問い直すための思考実験は、 悪夢・夢オチという飛び道具を採用することで初めて可能になったのではないだろうか。 ほら必然性めっちゃあるじゃん。誰だよ夢オチ興醒めとか言ったアホは?

 余談になるが、ふたりともが「俺と組まへん?」と久住から誘われていることにも言及しておきたい。 恐れるものは共通して不正義の誘いだということに、 ふたりにとってやはり正しく刑事であることこそ自分の存在意義であること、 彼ら警察という権力であり暴力装置が、不正義に陥る可能性というストレスに常に晒されていることを感じてしまう。

悪夢の底で

 ふたりはバットリで、最愛の相棒を死なせてしまう・必死に守った伊吹の正しさを汚してしまうという 最悪の結末を仮想体験して、軌道修正をはかったに過ぎないのか。 悪夢に懲りて共依存を抜け出したという解釈は、「間違えてもまたここからか」という言葉や、 ピタゴラ装置のモチーフとも合致する。(だからここからは仮定と仮説を重ねた私の妄想である点、どうかご容赦願います。)

 バットリを通して共依存が解かれたと仮定するなら、バットリ前までのふたりの正義にまつわる共依存、 およびそれと絡み合い拗れたそれぞれのこころの問題は、 最悪の結果を招いたことへの反省だけで断ち切れるような生半可なものだったろうか。 今のままだと上手くいかないから関係を見直そうという場当たり的なトライアンドエラーよりも、 もっと直感的で、何かしら啓示に似た心の奥底の働きがあったのではないか。 その方が、目覚めとともに180度の転換を見せたふたりに腹落ちできるような気がする。

バットリで久住の口を借りて表出した恐れは、彼らの願望の裏返しでもある。 伊吹は自分の獣性を制御して正しく刑事であること、志摩は大切な人を悲しませず正しい人間として生きていくこと… どちらもとても難しく簡単に駄目にしてしまいそうで、ふたりはそれが怖くてたまらない。 だから自分の力で実現することを諦めて、相棒に肩代わりさせようとした。 ふたりの悪夢はそれぞれ、この依存状態において正義の一部を手放してしまったあとに 残った自分の姿を表現しているのではないだろうか。 最悪の悪夢を見せられて、あんな自分にはなりたくない、 諦めて手放してしまったものを自分の手に取り戻したいと心から思う…かもしれない。 バットリの最後にふたりが〝間に合わなかった〟世界線で時間が加速し臨界点を迎える中、 志摩の声が最後に呟いたのは『でも、何とかして間に合いたいよな。最悪の事態になる前に』という、 伊吹がかつて志摩を感動させたのと似た言葉だ。 これまで「こうあらねばならない」というべき論や、 「こうすべきだったのにできなかった」という後悔の言葉ばかり口にしていた志摩が、 悪夢の先の先で初めて「こうしたい」という自らの願望を顕わにしたのだ。 ふたりは自分の根底に立ち返って、足りないところも含め自分自身に向き合ってやっと、 ほかならぬ自分がありたい正義の姿を素直に認めることができたのではないか。 心から望む自分のあり方は、どれだけ近くにいる大切な人であっても他人に委ねることは出来ない。 そのことへの気づきが、ふたりを共依存の関係から自由にしたという理解は不自然だろうか。

 どんな人間でありたいか、自分が本当に望む姿を知ることは案外難しいと思う。 私の人生なんてこの程度だという過小評価や諦めがバイアスとなって、奥底にある自分の気持ちに蓋をしてしまいがちだ。 「クズの自分を脱ぎ捨てて正しい人間になりたい」「間違ったことをしてみんなを悲しませるのは嫌」それはどちらも 「人として正しく生きていきたい」という、誰の中にもある至極原始的な欲求なのかもしれない。

 ここまで考えてふと、野木さんは伊吹と志摩を造形するとき、 もしかしたら正義という多面的な概念を別々の角度から担わせるところから始めたのかもしれないと想像する。 正義は暴力と表裏一体であり、同時にルールだけでは間に合えないものが確かにある。 正義が〝正しく〟誰かに間に合うためには、ひとりひとりが自分の中に正義の両面をバランスよく存在させる必要があり、 それを他人に肩代わりさせることはできない。 バットリ後の伊吹と志摩はそれぞれの内に、両方を備えているはずだと私は思っている。

零れ落ちた人

 本稿では404の共依存を入口に、ふたりの正義の話をしてきた。 この世で〝正しく〟あろうとすることは最近ますます難しく、だからこそ常に自分の依って立つべき〝軸〟を持ち、 磨き続ける必要がある。そのことを誠実に描いたMIUへの義理立てとして、こんな駄文の上ではあるけれど、 正義の枠外にいる人のことにも触れておかなくてはならない。

 MIUで繰り返し言及されたように、正義は私たちに当たり前に付与されるものではない。 人が人として社会を形作るのに不可欠なものでありながら、個人や社会全体が努力して育み守っていかなければならない、 か細く不確かなものだ。正義を棄てることは社会からの逸脱であり、人として生きることを放棄することと同義で、 私たちが獣になることはとても簡単だ。久住やエトリや大熊が、そしてガマさんがそうだったように。 『クズはクズのまま、どーしても許されへんかったら殺すしかないんちゃうん?』という久住の言葉は、 ガマさんが何度も自問自答しただろう問いであり、9話以降の伊吹を苦しめた。 (たびたびガマさんの心情へ同調を見せた伊吹。この問いは伊吹自身の正義を問い直すものであると同時に、 自分の内に確かに存在する獣の部分にも向かう。伊吹にとって二重に苦しい問いだ。) これに対する答えは、劇中ではついに名言されることはなかった。 風呂場で命乞いした堀内は、仮に再び赦されたなら改心できただろうか。 収監された大熊はあの煮え滾るような怨念から自由になれるのか。久住はこれから塀の中の生活で何を思うだろう。

 アンナチュラルでは徹底的なまでに犯人側の事情に触れようとしなかった野木先生が、 犯罪の起こる瞬間に焦点を当てたのがMIUだ。 少年犯罪に対する桔梗隊長の言葉に表れるように、MIUでは私刑ではなく法の下で犯罪を裁くという明確な意思とともに、 何かの拍子で社会からこぼれ落ちてしまった人にも「間に合おうとする」態度が伊吹や陣馬さんの言葉を通して表明される。 そしてこれと対極的なのが8話、堀内に語りかけた『麗子はおまえを赦すだろう』というガマさんのセリフだ。 この一言が挿入された意味を思うといつも堪らない気持ちになる。立場や信条や置かれた状況によって、 赦せるひとと、決して赦せないひとがいる。 犯人側にも情状酌量の余地があって、世間の同情を誘うようなケースも確かにあるだろう。 同様に、いかに法の目をすり抜けることができても許しがたいこともある。 その線引きは、社会や個人の考えでいかようにも変わり得るグラデーションにすぎない。 堀内は何度赦されてもついに改心できなかった。 彼にも何かしら、そこへ至った理由があったのかもしれない。 世間を騒がすニュースに眉をひそめ、部分的な情報だけで他人を苛烈な非難に晒しさえする私たちは、 当事者として・社会を構成するひとりとして、どういう態度でいられるか。 絶対赦さないという言葉を口にすれば、何様のつもりやと久住に嘲笑されるだろう。 ならこの社会は堀内をどうすれば良いのか。

 ひとつの展望として描かれたのが成川と九重の関係だった。 九重の『全部聞く』は、罪を犯した個人を社会が引き受けて、法の元で相応の罰を与えることで、 個人を赦そうとする態度だ。それは成川がこの後再び正しく生きたいという意思を持ったことで初めて成立した、 罪を犯した者と社会の接点だ。 裏を返せば大熊のように閉じ切ってしまった者は救えないし、堀内のように何度赦されても… という現実は依然として横たわったまま。私は誰かが大熊に間に合うことを祈り、 自分が誰かのスイッチになり得ることを忘れずいることしかできない。

 目の前に、もしくは自らの内にどうしようもない(巨大な、捉えようのない、手遅れな)〝悪〟があるとしても、 小さな〝正義〟を積み上げていくことを辞めてはいけないというのが、桔梗さんの言葉でありMIUのメッセージだと思う。 それは過ちの原因を自助努力の欠如に求める自己責任論とは真逆だ。 人間であれば誰でも間違え得るし、ちょっとしたことで奈落の底に落ちる可能性はあり、 むしろ正しいものと正しくないものが複雑に絡み合いながらあふれかえっているのが猥雑な現実の世界だ。 結局最後は個々人の自己決定で決まってしまう、でもそのほころびを個人のみに帰結させるのではなく、 社会の仕組みとみんなの力でカバーするための方法を、未来のためにひとつひとつ、どうか。 本当にしんどくて面倒くさくて嫌になるけど、そうして生きていくしかない。 404のように、正しい自分でなかったとしても、正しくあろうとし続けることがきっと必要だ。

結び

 ふたりの共依存の向こう側に、正義の物語としてのMIU404を読み取ろうとして長々と書いてきた。 当然ながら正義だけが絶対の価値であるはずはなく、文字通り正義面が鼻につく頭でっかちなこの文で、 何か良くない社会への向き合い方を表明してしまっていないかと恐れている。 ではなぜこんな肩肘張って正義の文脈からMIUを読もうとするのか。 そもそも善悪なんて相対的な尺度にすぎなくて、多様な価値観が入り乱れる今なおさら絶対的な正義はない。 そんな時代にあえて正義の物語を作る目的があるとしたら何なのか、それを考えてみたかった。 正しさの尺度はひとそれぞれであるが故に、分かりやすいストーリーがもてはやされ、 そうでないものが透明化されがちな昨今、正義を語ることは危うく、 またともすれば正しくあろうとすること自体が格好悪いことのような気さえする。 それ故に、改めていろんな角度から眺めてみた上で、 社会にとって/自分にとって正義とは何かを問い直すことが必要なのではないか。 アンナチュラルとMIUという鏡合わせの二作は、そのための物語だったのではないだろうか。 404は刑事たる自分の軸としての正義を自分自身の手に取り戻した。そしてMIUに登場する警察官は皆、 それぞれの信念を持って懸命に働くひとりひとりで、最後はその総力を結集して大円団を迎えることができた (たとえフィクションであっても・久住を捕まえた事さえ絶え間ないドブさらいの中でほんの一時の達成でしかないとしても)。 この物語は、機捜でも警察官でもない一般市民の私たちにとっても無関係ではない。 誰も零れ落ちることなく、すべての人に間に合える世界を目指そうとする気持ちを無くさないこと。 ヘルジャパンの名にふさわしい今の社会と政治の中にあって、 失ってしまいそうなその気持ちを、それぞれの持ち場で絶やさないでほしいというメッセージを私は受け取った。 伊吹と志摩の両方を正義の在り方として心のなかに居させること、 青池透子やハムちゃんのように戦えると知っていること。MIUがくれたものは思ったより大きかったとあらためて思う。

 最後にひとつだけ、少し残酷な仮定の話をしてみる。 もしもゼロ地点後にあのクルーザーのようなシチュエーションが再び訪れたら、 そのとき伊吹と志摩は拳銃の引き金を引くと思います?

 バットリが彼ら自身の正義を捉えなおす機会だったと解釈するなら、 バットリ後の伊吹はたとえ目の前で志摩が死んでしまったとしても発砲要件を満たさなければ引き金を引かないし、 撃つならちゃんと急所を外すだろう。 志摩は生きるのを手放すことなく、命が尽きる瞬間まで 自分も相棒も助かる道を探して正しい方法で足掻くことができるかもしれない。 「最後まで刑事でいること」、もとい「最後まで自分が思う正しい自分でいること」。 それは一度刑事の道を踏み外した香坂が、最後の最後に成し得たことでもある。 間違えても、またそこからやり直せるということだ。

 野木先生が『人は簡単には救えない』とTwitterで釘をさしたように、 ふたりの抱える問題が解決したわけでも根本的に何かが変わったわけでもないだろう。 あの夜の悪夢を経ても、ふたりはずっと昔から変わることのない自分の底を見ただけで、 せいぜい折り合いをつけながらやっていくしかないと前を向いただけかもしれない。 それでもふたりは、拠り所となるべき〝正義〟のありかたを、相棒の中ではなく 自分自身の中に以前よりもハッキリと見出せたのだと信じたい。 オリンピックが開催されたあとの世界でゴム底のついた靴を履いてしっかりこの地獄を踏みしめ、 バットリ前より少しだけ確かな自分自身の〝正義〟を胸にこの世界で生きて働くバディの姿がそこにあるに違いない。 そんなふたりにいつか再び会えるのが、私は楽しみで仕方ない。

 結局MIU全部の話になってしまい、大風呂敷を広げすぎた感はありますが苦しくもあり楽しかったです。 是非何かの機会にあなたの考えもきかせてください。私が喜びます。 正義の意味合いについて、本文中では思い切って少し幅広に使用しましたが、 もしどなたかを排除したり傷つけるような表現があればご指摘をお願いします。

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