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宿り火

 伊吹藍はとんでもない男だ。噂に違わず、あるいは噂以上に。

 24時間を軽くオーバーする当番勤務に報告書、 おまけに隊長からのお叱りに始末書作成というさんざんな初回当番を終えて、 帰宅後気絶するように眠りに落ちた志摩が次に目を覚ましたのは深夜だった。 枕元のスマホで時刻を確認して、非番の一日が何もしないうちに消えつつあることに溜息をついた。 体力には自信がある方だが、さすがにこれだけの超過勤務は30代後半の身体に堪える。 それに少し首が痛む気がするのは、事故のときに軽いむち打ちになったのかもしれない。 思い返せば昨日から今日にかけての一日は、単に長いだけでなくあまりにも、 本当に筆舌に尽くしがたい一日だった。数時間の睡眠では取り除ききれない心身の疲れは、単に激務のせいだけではない。

 朝まで眠ることをあきらめてコーヒーでも淹れようとベッドから身を起こすと、ふくらはぎが鈍く痛んだ。 これもおそらく今朝(まだ同じ日付の中にいることが信じがたいが) 相棒を追いかけて全力疾走したせいに違いなく、志摩は再びため息を吐き出す。

 さて、あの野犬をこれからどう手なづけるか。それは畢竟、志摩が再び本庁に居場所を得られるかを左右する問題でもある。

   *   

 ―― そこでしっかり見とけよ。

 助手席へほんの一瞬投げた視線が焦りと当惑の表情を捉えて、思わず唇が綻んだ。
 いい気味だ、そのまま口を開けて眺めてろ。 俺を振り回してばかりいられると思ったら大間違いだ。 しょうもないマウントの取り合いが好きらしいが、どうせやるなら時と場合を選んでこれぐらいやるんだよ。

 志摩は再び前を見据えてシフトバーを握り、思い切りブレーキを踏みこんだ。 視界の端で伊吹が衝撃に備えるのを確認して、怪我するなよ、と念じた。

 衝撃と音、少しの時間の暗転。

 エアバックに思い切り横面を叩かれたせいでやや朦朧としながら、 志摩は身体に受ける重力の向きで車体が横転していることを悟った。 身じろぎすると打ち付けられた右手と右脚が少し痛む気がするが、幸い大したケガはなさそうだ。

 機捜車の車内も一見して原型を留めている。 予想通り犯人はブレーキなしに突っ込んできたようだが(イカれてんのか?絶対とっ捕まえてやる)、 割れたフロントガラス越しに見える交差点の位置からして、 体当たりで犯人の車を止めるという我ながら無謀な目論見がなんとか成功したことを認めて、 志摩は安堵した。やはりあの状況下ではこの判断が最善だった。犯人の車は頑丈そうな四駆で、 恐らくこちらよりダメージが小さい。仮にこの場からは逃げおおせても、 これだけの騒ぎを起こして捜査網をかい潜れるはずはない。 ただし機捜車が横転した以上、残念ながら自分たちはここで応援を待つしかないわけだが。

 分駐所へ帰ってからの山のような報告書と桔梗への弁明、周囲の反応を思うと胃が重くなる。 やっと掴んだ機捜のポジションだというのに、滅茶苦茶なこの男のおかげで初日から散々だ。

 いや、これをやったのは自分ではあるのだが。

 「…おい、生きてるか?」

 ほんの数秒で考えをめぐらし、八つ当たりを過分に含む思考を脇に追いやりながら、 助手席に収まっているはずの男に声をかけた。 重力に押し付けられているせいでそちらを直接確認するのは容易ではないが、恐らく伊吹も無事のはずだ。 なんとか拘束から抜け出そうとシートの上で身じろぎした矢先、 志摩は視界の端に派手なスニーカーがダッシュボードを踏みつけるのを捉えた。 驚いて身体をひねると、黒い長身がぬっと伸び上がって上方に開いた窓から抜け出していく。 何するつもりだ、そう思ったが声を上げる暇もない。

 慌ててシートベルトを外し、必死に身体を起こして助手席の窓に手を伸ばす。 衝突事故を起こした上犯人をタコ殴りにでもされたら目も当てられない。頼むから余計な事するんじゃないぞ ――

 思いのほか滑るダッシュボードをよじ登るのに苦労しつつ、 駆けつけてくれた陣馬さんの助けを借りてやっと車から抜け出した志摩の目に入ったのは、 事故現場から逃走する犯人の車と、それを目がけてみるみる小さくなっていく相棒の後ろ姿だった。

 「…脚が、速い。」

 その背中を思わず指差したまま、呆れ呟く

 ここで走るか?普通。まさか走って犯人の車に追いつこうというのか。 自信家なのか、馬鹿なのか。いや両方か。そうする間にも伊吹の後ろ姿はどんどん遠ざかっていく。

 たぶんあいつは何も考えてない。 401がすぐに到着して代わりに犯人を追ってくれるだろう事とか、 事故の処理のためこの場に残るべき人員とか、なにひとつ。 ただ目の前に獲物がいるから、追いかけずにはいられない猟犬のように。でもまだヨシって言ってないぞ俺は。

 ――上等だよ。

 走るのはあまり得意じゃない上に、さっきの横転でぶつけたらしい膝が少し痛んでクソ、 と毒づきながらも志摩は遮二無二走り出した。 こうなったら何が何でもあいつを追っかけるしかない。相棒をひとりで行かせるわけにはいかなかった。

   *   

 あんなに全力で走ったのは何年ぶりだろう、 下半身の鈍痛は確かに伊吹を追いかけて全力疾走したせいに違いなかった。 相棒のコンセンサスを得ないまま犯人を追いかけるのは独断先行であり、 伊吹の行動は徹頭徹尾、警察官の行動規範から外れている。 前評判どおり、間違いなく刑事として伊吹は危うい。 この先奴と相棒を続けるなら、今回のように殴り飛ばしたくなるような場面がきっと何度もあるだろう。 まずは刑事のルールから叩き込まなくては。 そしてそれだけじゃなく、相棒を独走させないよう食らいつくための方法も考えておかなければならない。

 気づけばどう伊吹とうまくやっていくかで頭がいっぱいの自分を発見して、また苛立ちがぶり返した。 たった一日一緒にいただけなのに、これからバディとして職務にあたるための課題はすでに山積みだ。 機捜に来て若手の教育係になることは想定していたが、まさか同期の問題児と組むことになろうとは。 しかもその相手は規格外すぎて、到底一筋縄ではいかないように思えた。

 しかし、だ。それでもいい。 どんなに難しい相手と組まされたって、 あのまま試験場や所轄で飼い殺しになるのに比べたらそれでも良いと志摩は思う。 この先も、ずっと警察官でいると決めたからには。

 もぞもぞと緩慢な動きでベッドを抜け出した志摩は、枕元のスタンドを点けた。 暖色の控えめな明かりがコンクリート打ちっぱなしの不愛想な壁を照らし出す。 家具らしい家具がほとんどなくテレビボードばかりが目立つ生活感の乏しいその部屋を抜け、扉を開ける。 物が少ない室内に比べ、廊下はごみの日を何度か逃し続けている不燃物の袋や、 洗濯ものが突っ込まれたカゴなどでやや雑然としていた。 体温よりいくらか冷たい空気が肌着一枚の首筋を撫でて思わず身震いする。 鉄筋造りのマンションは気密性が高くて空調いらずだと聞いたはずが、 4月の夜の冷気が硬い床から這い登ってくるようだ。 志摩は不動産屋の調子のいい口上を信じた自分を呪いつつ、はだしの足にスリッパを引っかけて玄関へと向かった。

 廊下の照明スイッチを押すと、突き当りの手狭なスペースには、 靴脱ぎからフローリングに半ば乗り上げる形で赤い自転車が立てかけられていた。 うっすらと白くほこりをかぶっているものの、泥汚れや傷はほとんどなく、 つややかな車体は照明を反射し、サイクルショップでディスプレイされているもののように真新しい姿を保っている。 最後にこれに乗ったのは何年前だったか。 捜査一課に入る前に付き合っていたアウトドア好きの彼女と一緒に購入した、 それなりの機能とそれに見合う価格のロードバイクだった。 恋人に勧められて買ったものではあったが、志摩自身昔からサイクリングが嫌いではなかった。 硬く空気を張ったタイヤでしっかり道路をグリップして前進する堅実さと、 両足の上下運動を回転に変えて速度を増す効率性は好みに合っている。

 しかし結局、少なくない額のボーナスをはたいたこの自転車で東京の街を走ったのは片手で数えるほどだった。 捜一へ異動になった後はたまの休日に人間的な外出をする余力があるはずもなく、 その彼女とどうやって別れたのかさえすでにおぼろげになっている。 我ながら薄情なものだが、忘れることが人間にとって重要な能力だということを志摩は知っている。

 長いあいだ主人に顧みられることなくマンション廊下のオブジェと化して久しいその自転車に、 もしかすると数年越しの出番がやって来るかもしれない。 ためしに屈んで前輪を指圧してみると、白いラインが入ったゴムは大した抵抗もなくやわらかくへこんだ。 室内とはいえ長期間放置していたのだから仕方がなかった。 人間と同じく、調子よく動くためには道具にも手入れが必要だ。

 玄関の物入れを探ると、運よく数年前に購入した予備のパーツが見つかった。 前後のタイヤから経年劣化しやすい虫ゴムを外して、手早く新しいものに交換する。 ブレーキレバーの効きとパッドの減り具合は見たところ問題なさそうだ。 これならチューブが駄目になっていなければ、空気を入れるだけで走れるはずだ。 自転車屋へ行くのは面倒だからと本体のついでに購入した空気入れが確かまだあったはず。

 志摩はどっこらせと立ち上がって、ビニール傘が何本か無造作に突っ込まれた隅の傘立てをどかすと、 何年もしまいっぱなしのポンプをいそいそと引っ張り出した。 すでに、志摩の寝起きの脳内はこの自転車に乗って伊吹を追いかけるイメージにすっかり占領されていた。 狭いマンションの玄関で自転車に空気を入れるという何年も気が向かなかった面倒な作業も、 今は不思議と大した手間だと感じない。

 機捜に来る前の数年間、志摩は味気なく無為にただ仕事をこなす毎日を送った。 二度と陽の当たるところへ行くことはないと思っていたが、時間がゆっくりと心境の変化をもたらした。 それが一概に良かったとは思わないし、そんな自分が許されると考えたことは一度もない。 それでも、桔梗さんは再起を期待して肝いりの新組織へと呼び寄せてくれた。 所轄勤務に手ごたえの無さを感じていた矢先に声がかかったとき、 まだ刑事として最前線を走っていたい気持ちが確かにあることを志摩は自覚した。

 そうして長い間待ってようやく迎えた初回当番だったはずが、 最後の最後で、どう控えめに言っても俺たちは「派手にやらかして」しまった。 ただでさえ札付きの二人組が、機捜一のトラブルメーカーに格上げされるのは間違いないだろう。 これから伊吹とふたり、組織の一部としてうまくやっていかなければならないと思うと本当に気が重い。 今回、結果的に最悪の事態を避け、大麻密売を検挙するおまけまでついてきたのは404だけの手柄ではなく、 ましてや伊吹の優れた感覚と脚力のみによるものではなかった。 それはギリギリの業際業務に付き合ってくれた陣馬と九重の401、 糸巻たち情報班、コールセンターや生活安全課の職員たちの滞りない連携のたまものだ。 自分たち警察官にとって、組織としてどう円滑に機能し能力を発揮するかが最も重要なのは言うまでもない。
 だが、と志摩は思う。それら以上に、やけを起こした犯人を止め、 迷子のおばあちゃんを女の子の元へ無事返すことができたのは、 目の前のだれかを―― それがだれであろうと―― 簡単に手放すことをしない伊吹のちからだった。機捜っていいなと笑って見せた、あの屈託のない表情。

 認めざるを得ない。

 一時は蓋をして自ら忘れようとした、だが6年前のあの日から消えることなく志摩の心の中にあり続け、 ようやく息を吹き返しつつあった種火に新鮮な一陣の風が吹き込んで、静かに燃え始めていた。

 動かすたびキシキシと控えめに音を立てるチェーンに油をさして、滑らかにペダルが回ることを確認する。 タイヤも骨格も太めの作りでやや無骨な雰囲気の赤いロードバイクは、 すっかり準備を整えて今すぐにでも外を走りたがっているように見えた。 これがあれば機捜車が入れない狭い道でも相棒を追いかけて走れるし、 多少の段差だって踏み越えられる。分駐所にでも置いておけば、いつか必要になる時がくるかもしれない。 相棒を一人で行かせないために、伊吹のとなりを走るために、きっとこの自転車が武器になるだろう。

 最後にペダルをまわしながらシフトレバーがスムーズに動くことを確認して、 志摩は自転車を壁際のスタンドへ戻した。 明日が雨じゃなければ出勤は自転車にすればいい。 機械油で汚れた指をウエスで適当に拭うと、志摩はようやく初当番の疲労と汗を落とすべくバスルームへと向かった。

 翌2度目の密行の朝、何の因果か404がおよそ警察車両とは思えない〝代車〟を得て、 けれどそれがからっぽの荷台を持つ背の高いバンだったおかげで、 この赤い自転車が早々にパトロールのお供に加わることになろうとは、志摩はまだ知らない。

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