ある拾得物に寄せて
「ハムちゃんから、次の休みに桔梗さんちでチョコケーキ作ろうって!志摩も行くよね?」
夜9時を回って夜間の重点密行に出発した矢先、さっきから助手席でしきりにスマホをいじっていた伊吹が弾んだ声を上げた。 LIMEの相手はハムちゃんらしい。 疑問形で聞いてきたくせに、『りょうかーい』という声とともに返事をする間もなくオーバーアクションで画面をタップする伊吹に、 運転中の志摩は前を向いたまま軽くため息をこぼした。 去年の夏頃に桔梗宅で焼肉をごちそうになってからというもの、こうして時々ハムちゃんから伊吹にお誘いがかかり、 ゆたかの誕生パーティだのクリスマスだのと桔梗家の団らんの場に二人そろって邪魔するようになった。
今回は…時節柄バレンタインか、と夜のコンビニを彩るピンク色のポスターを眺めながら思う。 桔梗さんち、バレンタイン、チョコレートというワードが疲れた脳みそに浮かんだ。 桔梗と羽野麦と、志摩と伊吹。 はたから見たら二組のカップルに見えなくもないだろうけれど、あいにくそんな甘い雰囲気を感じたことは微塵もない。そう、微塵も。 今しがた志摩の頭を占領した甘いイメージはいわば不可抗力であり、誰も責められるべきではない。
「うわぁ~手作りチョコなんて何年ぶりだろ!」
伊吹はというと勤務中なのをすっかり忘れてはしゃいでいる。 キャッキャウフフとやらの匂いがすると、この男はいつも以上に動きがうるさくて参る。
「手作りったって皆で作って食うんだからノーカンだろノーカン」
「いいじゃん志摩のけち!チョコはチョコ!ハムちゃんの手作りチョコなんて~もうきゅるっきゅる! ついでに志摩ちゃんも、桔梗さん手作りのチョコゲットできるチャ~ンス!」
信号が変わり、助手席から飛んでくるハートを溜ぞんざいに振り払ってハンドルを切る。 もちろんついでかよ、と苦情を添えるのも忘れない。 楽しそうにはしゃぐ伊吹は、ことふたりきりの車内ではやかましくてしょうがないが、 長い夜の始まりの雑談としてこの話題はそれなりに適切かもしれないな、と思いなおす。
「…まるで昔はチョコもらいまくってた~、みたいな口ぶりだな」
伊吹は一瞬動きを止めて思いめぐらすようなそぶりを見せてから、 先ほどの自分の言葉を拾っての言葉と分かってああ、と相好を崩した。聞いて驚けとばかりにたっぷりと間を取って答える。
「1回だけな~?高3の頃、もうすぐ卒業ってくらいの時期に。
手紙も名前もなかったけど手作りぽいチョコが下駄箱に入ってたことなら、ある」
「いたずら感満載じゃねーか。絶対食えないやつだな。」
「いやそこは食うっしょ!チョコだよチョコ!ありがた~く食うっしょ」
青春に思いを馳せてますといううっとりした表情の相棒を間髪入れず混ぜっ返しつつも、 不良少年だった伊吹にひそかに思いを寄せる生徒が、 夕方の校舎で周りの様子を気にしながら下駄箱に小さな包みを押し込む姿を志摩は想像した。 喧嘩に明け暮れ周囲に人を寄せ付けなかった頃はともかく、ガマさんに出会って刑事を志すようになってからの伊吹は、 もしかすると黙っていればそれなりにモテたのかもしれない。 なにしろ学生の時分は品行方正よりも少し素行が悪く、運動ができる男子が圧倒的にモテていたような気がする。 志摩ははるか遠い昔、バレンタインの時期のどことなく浮ついた雰囲気の教室を思い出した。 少なくともそういう立ち位置の学生ではなかった自分のことに話が及ぶ前に、ここはさっさと一般化してしまうに限る。
「まぁそんな風にキャッキャウフフできるのも高校までだからな警察官は。警察学校も配属先もほとんどの場合、恋愛うんぬんできる環境じゃない」
警察官同士の職場恋愛なんて、よっぽどの勢いと積極性がなければ実を結ぶものではない。 大抵の好意はふんわりと淡い思いのまま、時間の経過とともに過去のものになっていくのだ。 てっきり桔梗隊長の話に火の粉が飛ぶかと内心警戒を強めた志摩をよそに、 話すか話すまいかという逡巡を感じさせる数秒の沈黙の後、伊吹がおもむろに切り出した。
「…そういえば刑事になってからもチョコもらったことあったわ、おれ」
へぇ、と思わず素直な声が漏れた。
かつて職場でトラブルを起こしては鼻つまみ者扱いされていたこいつが意外な気がして、
触れたくないものを掘り起こす危険を気にしながら尋ねる。
「どこにいたとき?」
「奥多摩の交番。…なんと小学5年生から。」
続いた言葉に志摩は思わずせき込みそうになった。
「おまっ、それ犯罪手前だぞ!?」
「いやいやいやさすがになんもねーよ‼」
条例違反、警察官として、いや成人としてあるまじき行為と矢継ぎ早に繰り出す志摩を制して伊吹が弁明するように声を上げる。
「落ち着いて志摩ちゃん!たまに顔見かける近所の小学生が交番に届けにきたんだよ、落とし物ですって。」
「手作りチョコを?」
「そう。通学路で拾ったって」
なんとなく変な話だ。だれかが通学路で手作りチョコを落とす?
「で、帰り際に食べ物の落とし物ってどうなるんですかって聞くんだよ」
「へぇ」
「賞味期限まで取っといて、ダメになるまで持ち主が現れなければ捨てますって言ったら、
すごいショックみたいな顔してさ。何か言いたそうだったけどそのまま帰っちゃった」
当時20代の伊吹は若い方だろうし、早熟な小学生が東京から来た交番のお巡りさんに恋心を抱くというのもまああり得るだろう。 しかし本人が拾ったと言い張る以上、それはもらったことになるのだろうか。
「で、次の日曜にその子が親につれられて交番に来たんだ。」
すわクレーム案件かと構えたが、伊吹は続ける。
「こどもが学校の友達じゃない奴にチョコ渡したっていうから問い詰めたら交番のお巡りさんだっていうから、 謝って返してもらいに来たって。親はなんかフクザツな顔して、謝りに来たって様子じゃなかった。 本当に警察官に渡したのか、そいつがまともな奴か確かめて、変な気起こさないように釘刺しとくって感じだったよ。 未成年相手の公務員のインコーってよく報道されるしね」
「その子は?」
赤くなってうつむいて、何にも言わなかった。
窓の外を流れる町明かりを眺めながら伊吹は付け足す。
「親の気持ちも分かるな」
「だな。おれが奥多摩に行った最初の年だったから、地元の人からしたら完全によそ者だし?」
奥多摩の地域性がどんなものか、志摩は詳しく知っているわけではなかった。 だが、ただでさえ都会のただ中にいても悪目立ちする伊吹が、 奥多摩のコミュニティにすんなりと受け入れられるタイプのお巡りさんだったとは考えにくい。 その想像は、志摩の胸のあたりを冷えた手ですっと撫でていった。
「…チョコは?返したの?」
「ううん」
伊吹は窓の外を見たまま答えた。
「確かにもらったけど、もうないって言った。拾得物として保管してたけど、 賞味期限もわかんないし、おいしそうだったから皆で頂きました~って」
志摩の頭の中で、俯いていたその子がぱっと顔を上げて伊吹を見た。 その時の伊吹はどんな顔をしていただろう。 すごくおいしかったですよ、ありがとうと満面の笑みで告げる伊吹と、困惑する親や同僚の様子までありありと想像できた。
「そのチョコはたしかにおまえ宛だったのか?」
「それはまあ、本人に直接聞いたわけじゃないしわかんないけどさ。 その子は中学卒業するまで毎回、顔合わすたびに挨拶してくれたんだよね。 そんな感じで顔見知りになった子はほかにも結構いたんだけど、 なんせ8年も居たからさぁ。その間に皆でかくなって。 進学したり就職したり、結婚して親になった子もいた。子供が大きくなっていくのってなんか良いよね、 お巡りさんミョーリに尽きるってゆうかさ」
志摩が返事をしなかったので、しばらく車内に沈黙が流れた。
「―― で、結局そのチョコ食ったの?」
「内緒!」
まるで宝物を自慢する子供のように、こちらにニカっと歯を見せて笑った伊吹を、 志摩は前を向いたままちらりと横目で伺った。 そういうことがあったとして、当然ホワイトデーのお返しなんかはしなかっただろう。 伊吹は紛れもなくその町の警察官で、大人だから。 登下校中に顔を合わせば、誰に向けるのとも同じ人好きのする笑顔で少し屈みこむようにして、その子にも声をかけただろう。
こうして密行中に切れ切れに語られる伊吹の昔話を繋ぎ合わせてみれば、 奥多摩での8年は退屈だったかもしれないが、ささやかな喜びに彩られた日々だったのかもしれない。 こいつはいつか、自分が奥多摩で腐らずにいたことを〝ラッキー〟だったと表現したが、 それは間違っても運なんかじゃなくて、きっと伊吹自身の性質によるものだと志摩は思う。 大人になったその子の胸の奥底に、ちょっと頭の軽そうな、 しかしとびきり優しくて眩しい笑顔の巡査が今もきっと生きていることだろう。
「ちなみに志摩ちゃんはぁ~?チョコもらったこと」
「黙秘します」
伊吹がみなまで言う前にわざと遮った声に笑みが含まれていることを気付かれなければいいが。 志摩ちゃんの恋バナが聞きたい聞きたいとごねる伊吹をかわしながら夜の町をゆっくりと流す。 港湾を抜けて、高層ビルの無数窓からはキラキラとあたたかな光がこぼれている。
きれいだよな。
口の中でつぶやいた声は幸い伊吹には聞こえなかったようだ。 おまえがそうして手渡したきらめきはずっと消えずに、誰かの胸の中に灯り続けるのだろう。 伊吹藍が正しく刑事である限り、これからもずっと。