Seize The Star

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鮮やかな世界

 アラームが鳴った瞬間にスマホへ手を伸ばして電子音を止める。 伊吹藍は大抵、目覚ましが鳴る少し前に目を覚ます事が多い。 ゴールに飛び込んだちょうどその瞬間にストップウォッチを押すみたいに、 『リリリリン』のはじめの『リ』が聞こえるかどうかの瀬戸際を攻めるのが、 密かでちょっとした毎朝の楽しみだったりする。時刻は朝5時ちょうど。 もうすぐ日の出だが、カーテンの向こうはまだ薄暗い。

 マットレスから降りると、裸足の足裏にたたみの感触が心地よかった。 数日前まで起き抜けは肌寒いくらいだったのに、季節の移り変わりはいつも早い。 あと少しで春は過ぎ去って、すぐに夏がやってくる。 伊吹はまだ少しぼんやりする頭を軽く左右に傾げて首すじをほぐすと、 立ち上がって窓からの淡い光を頼りにランニング用のシャツに袖を通した。 手洗いと水分補給を手早く済ませてから、 部屋の入り口近くが定位置の白いウィンドブレーカーを羽織ってランニング用のシューズをつっかけると、 周りの部屋の住人を起こさないよう慎重にドアを開ける。 出かける前に炊飯器のタイマーが押されていることを確認することも忘れずに。 6畳二間の部屋を抜け出して静寂で満たされた空気の中へと踏み出すと、 官舎の窓にはすでにちらほらと明かりがつき始めている。 世間が起き出すにはまだ少し早いが、それぞれの部屋で警察官やその家族たちが一日の準備にとりかかっているのだろう。 伊吹はこの時間帯が好きだ。町全体よりも少しだけ早く始まる警察官たちの一日。 奥多摩に異動する前からずっと変わらない、官舎の日常だ。

 施錠を確認してからドアの前で靴紐を結び直すと、 足音を忍ばせてコンクリートを踏みしめつつ階段を下った。 休日2日と日勤を経て、今日は3日ぶりの当番の日だ。 出勤の時間まで、朝を楽しむ時間はまだたっぷりある。 まず1時間ほどランニングで身体をほぐし、 部屋に戻ってシャワーを浴びてから簡単に食事をとって、 家事を片付け8時過ぎに分駐所へ向かうのがいつものリズムだ。 この生活サイクルもすでに何巡かして、だいぶ身体になじんできた。 奥多摩の交番勤務は3日単位の24時間勤務当番制だったから、 異動したばかりで覚えることが多いとはいえ、前より幾らか余裕があるくらいだ。 5月になって、もう少し落ち着いたら一度ガマさんのところにも顔を出さないといけない。 異動を報告したときすごく喜んでくれたから、新しい職場や相棒の事をきっと聞きたがっているはずだ。

 軽い足取りで階段を下りきって、すっかりいつもの定位置になっている駐輪場の隣で身体をほぐす間にも、 みるみるうちに東の空が白んでいく。 無音の町が少しずつ生気を吹き込まれて、夜明けが近づいてくるのを感じながら、 伊吹は身体の隅々へ新鮮な血液をくまなくめぐらす。 最後に大きく深呼吸すると、官舎の門扉をくぐってゆったりしたペースで走りだした。

 朝の街を走る間、伊吹の思考はあてどなくあちこちを浮遊する。 2人分のコーヒーを買いに立ち寄る深夜のコンビニの入店チャイム、 メロンパンの車から眺める夕暮れの首都高、隊長に叱られながらこっそり伺った新しい相棒の横顔。 イメージが脳裏を横切っては消えていき、 ランニングシューズのソール越しに伝わってくるアスファルトを蹴る感触が4月の出勤初日を蘇らせる。

 あの日、久々にアドレナリン全開で、獲物に向かって走った。 ランニングで流すのとは全然違う、長い間ずっと忘れていた感覚に全身が震えた。

 あのとき思いっきり走れた理由。志摩がカーチェイスの最後の一瞬に見せた顔を、何度でも思い出す。

 ―― いくぞ。お前ならついて来られるよな?

 言葉は無かったが、アクセルを踏み込む前に一瞬合わさった視線でそう言われたのがハッキリ分かった。 身体中の血がぶわっと沸き立つのを感じて、衝撃に備えて体勢を整えるのも上の空のまま、 オレは志摩の横顔から目を離せなかった。 ルール第一、危険運転なんか論外って感じだったこの男が、 狭い道を信じられないスピードとテクで飛ばす姿にちょっと痺れてたところだから尚更だ。

 これって久々の感覚、すげーヤバいやつ。

 理屈っぽくてルールでがんじがらめの面白くない奴と思わせておいて、こんなの反則だ。

 あの日24時間のあいだに、志摩に抱くオレの印象はめちゃめちゃ変わった。 第一印象は物腰柔らかでスマートな男そのものだった。 初対面の相棒と上手くやろうとしてるのがわかって、仲良くなれそうな気がして嬉しかった。 それが段々イライラし始めて、オレのことなんか全然信用してないって態度に出されて。 またかって正直思ったけど気にならなかった。オレにとってはいつもの事だから。 でも、そこからが他のやつらとは少し違った。 あんだけイライラしながらも、オレの言うこと、シカトせずにちゃんと聞いてくれた。 自分も他人も信じてないから可能性のひとつとして排除しない、 だっけ?志摩の言うことはいちいち難しくてよく分からないけど。

 だから明け方の分駐所でゴミ箱を蹴りつけて怒鳴られたのには、 なんつうかワクワクしてしまった。 その後なんでか落ち込んでたけどさ、どう考えてもあっちのお前が本性じゃん? 口が悪くて皮肉っぽくて、他人にも自分にも全然優しくなくて、 でもなんか熱くて、そんなお前がまっすぐこっちを向いてくれたのがなんか嬉しかった。

 こいつは他のやつとは違うのかもしれない。

 微かに笑みさえ浮かべて再び前を見据える横顔から目を離せないままで、 さらに増すスピードに体を押さえつけられながら思った。

 ついて来られるかと煽られたら、受けて立つしかなかった。 志摩が車を大破させて最悪の事態を止めたなら、次は俺の番だ。 シートベルトで固定された身体が衝撃に振り回されて止まったあと、 自分が車からどうやって抜け出したのかはあまりよく覚えてない。

 とにかく俺は考えるまでもなく車のから抜け出して、 まっすぐ獲物の行方を視界に捉えた。それからアスファルトの上に降り立って、 トントンと小さくジャンプするわずかの時間、無音の中でさっきの志摩の表情を思い出していた。

 ―― あんな顔されちゃあね。

 低い姿勢から地面を思い切り蹴って、今にも見えなくなりそうな犯人の車めがけて、 はじめっからトップスピードでスタートする。 アドレナリンがドバドバ出てるから、このペースで何分走れるかなんて事は気にしないでいい。 犯人どころか、このままどこまでだって行けるとオレは思った。

 それまで全然噛み合わなかったオレたちふたりが、はじめて隙間なくぴったりハマって動き出したような気がした。

 あのとき運転席からこちらに投げられた視線が、目尻が赤くなって熱の宿った目つきが、 まぶたの裏にくっきりと焼き付いて離れない。 あの目は、命がけのクラッシュへの覚悟をオレに促していたのか、 それとも昼間の運転に対するお返しのつもりだったのだろうか。

 常に先を読む、頭が良くて口も回る志摩が考えることは分からないことばかりだと、オレはもう知ってる。 考えたってしょうがないことは考えないに限るよな。でも考えるまでもなく分かってることが一つだけあって。

 あの瞬間、オレどうやら志摩ちゃんの事気に入っちゃったんだよね。

 その後なぜかぶん殴られたけど(しかも遠慮なく殴られたからけっこう痛かったけど)、 それすらなんか嬉しかった。確かにオレもおふざけが過ぎたけどさ、 あそこまで思いっきりぶん殴ったのって、オレがキレて殴り返したりしないマトモな奴だって分かってるからかなって。 もちろん一回は一回だから、そのうちちゃんと謝ってもらうけどな。

 もうすぐ5月。

 季節とともに彩りが増していく世界で、朝の空気をリズミカルに胸に吸い込んでは吐く。 今日もオレは思いきり走れる。それがどうしようもなく嬉しい。

――あぁ、生きてるって感じ。

 思って、自分でもなんだかおかしくなって笑いがこぼれた。 この先、何が起こるか分からない。刑事ってそういう仕事だ。 志摩とのあいだにだって、きっとうまくいかないことがたくさんあるに決まってる。 でも、そういうのもひっくるめて全部これから始まるんだぜ。すげえワクワクするじゃん?

伊吹は信号で立ち止まると、真正面から差し込む朝日に目を細めた。彼の世界は、今こんなにも鮮やかだ。

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