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青の幽霊(8)

2012年7月下旬 11歳

 もしもし。は~いひかるです。はは、元気元気。うん、今親いないよ。まだ仕事。あたし?あたしはお風呂あがったとこ。えー全然、迷惑とかないし。寝るまで暇だったから嬉しい。菜々は?今日大丈夫なの?来てなかったでしょ、学校。うん。そりゃ気になるし。そーね、先生はあんまり気にしてない感じだったよ、普通に来てないよって言われた。
 で、今日も受験勉強?えーまじで!朝から塾か。へえ、夏期講習の予習。予習って人生でやったことないわあたし。てんのーざん?すごいね。なんかと戦ってるの?戦ってるのか。あ、でも掃除とかはやらなくていいんだね。お昼は?マック?へぇ、それはちょっといいかも。

 うん、今日も一応交換ノート持ってったんだけど、ううん、渡せなかったのは別にいいよ。電話で話した方が早いし。いつもと同じで別に大したこと書いてないけど、何書こうかなっていろいろ考えてるのがなんかいいんだよね。あ、昨日の夜テレビ見ながらリビングで書いてたらさ、うっかりお父さんに中身見られそうになって。多分大丈夫とは思うんだけど、見ようと思えば見られる状態になっちゃってたって感じ。えっいや大丈夫だよ、お父さんそういうの見ないタイプだから。菜々んちと違って、うちテキトーだから大丈夫。…わかった、わかったよ、気を付けますって。でもさ、菜々の話聞いてて思うけど、ほんとにうちの家族ってそういうの、あんまり干渉しないかも。うん、お母さんもお父さんも。休みの日とかも結構みんな好きな事してるし。お母さんは土日もシフト入ってることが多いし…ゴルフ?うちのお父さんは死んでもやらなそうだな、そういうの。ちょっとひねくれてるんだよ。ひとりでバイク乗って出かけるか、友達と遊ぶくらいかな。うん、お父さんの昔からの友達。あたしもついてくことあるよ。赤ちゃんの頃から知ってるから、親戚のおじさんみたいな感じかな。おじさんだと怒られるか。年上のいとこみたいな。結構可愛がってもらってるよ、ほんとの親戚より仲いいくらい。

 でさ、最近ちょっと変わったことがあったのよ、お父さんに。あ、ごめん、うちの話ばっか嫌じゃなかった?そう、なら良かった。え?いやカッコいいとかないし!それ前から言うけどさぁ。まわりの親よりちょっと若いだけでしょ?お腹だってタバコ辞めてからぷよってしてきたし。いや、悪いけどその気持ちはほんとに分かんないわ。…うん。えーとね、突然バスケ雑誌買ってきたんだよ。バスケ。バスケットボールね。何冊も。大事なとこに折り目がつけてあってさ、夜それをひとりでじーっと読んでるの。パソコンでもよくバスケのサイト見てるんだよね。今まで全然興味なかったのにさ。うん。何事にもそんなに夢中になったりするタイプじゃないんだよ。いつも冷めてるっていうか、つまらなさそうな感じ。え?あ、そうだね、大人はそれが普通かもだけど。
 で、まだ続きがあるんだよ。この前の休みの日にね、ひとりで出かけたときの髪型が、オールバックっていうの?ほら昔の人がやってた、ワックスじゃなくてポマード?…ふふ、そう。わかんないんだけどテカってて、ちょっと盛ってあるやつ。あー、思い出したリーゼントだ!そう、そう。ウケるでしょ??爆笑だったんだけど。いや、別に全然かっこよくはないよ。確かに似合わないってこともないけどさ。サングラス?そんなの警察に捕まっちゃうよ!
 それでお母さんに聞いたら、お父さん昔はずっとその髪型にしててさ、高校生の頃はちょっと地元で有名な不良だったんだって。びっくりじゃない?今は全然普通のおじさんなのに。昔の自分に戻りたくなったのかなぁ。あ、確かに。昔の彼女に再会したってのはあり得る。でもあんな髪型で会いに行くかなぁ。時代サクゴっていうか?さすがに変でしょ。

 そうなんだよ、それを交換ノートに書いてたとこだったからさ。読まれてたらどうしようってさすがにひやひやした。うん、別に怒りはしないと思うよ、事実だもん。お父さんはそういうとこフェアだから。どう考えても悪いことしたら、すごい詰めてくるけど。あはは、元ヤンだし?
 菜々はサボりとは違うじゃん。勉強してるんだから。うん、むしろ超優等生でしょ!明日は学校来れそう?わかんないか…まぁ電話できるしいっか。あんま長電話してると親がうるさいけどね。うん、うちも中学入ったらさすがにケータイ買ってくれると思う。したらもっと喋れるね。あ、お金かかるのかな逆に。メールめっちゃする?うん。そう、あたしもバイト早くやりたい。お金があったらしたい事いっぱいあるもんね。いや、受験はお金たくさん稼ぐためにするものなんじゃないの?そう、将来。だからさ、お金があったらさ、どこにでも行けるし、何でもできるのにね。いろんなものに縛られずにさ。

 あ、お母さん帰ってきたっぽい。切るわ。
時間ならあたしは全然あるからね。うん。いつでも付き合うよ。じゃあね。

 *

 学校へ迎えに来たとき、お父さんは全然怒ってないみたいに見えた。職員室の戸を開けて先生の向かいの椅子に座らされた私を見つけると、お父さんはちょっと困ったように眉を下げてから「水戸です、お世話おかけしまして」と言って軽く会釈した。私のしたことについて先生と長い話が始まるとばかり思っていたら、そのまま廊下から手招きされたので、私は戸惑いながらランドセルを肩にひっかけて、小走りで職員室を出た。廊下を先に立ってぶらぶらと歩いて行くお父さんの後ろについていくと、背中を向けたままいつもの調子で「職員室ってさ、苦手なんだよな、昔から」なんてひとりごとみたいに言うから、全然普通すぎて拍子抜けしてしまった。悪いことしてるんだって、これでも一日中ドキドキして、怒られる心の準備だってしてたのに。なんだか損したような気分だった。

 下校時間をとっくに過ぎて空っぽになった真夏の学校は、疲れ切ったようなだるい雰囲気に満たされていた。誰かに見られたら嫌だなと思いながらお父さんの3メートルくらいあとを歩いて行くと、校舎と体育館の隙間に並んだたくさんの自転車のすみっこに、うちのバイクがひっそりと停めてあった。私は無言で手渡された私用のヘルメットを大人しくかぶって、ランドセルを背負ったまま普段は荷台になっている後部座席によじ登った。それを確認すると、お父さんは何も言わずにバイクのエンジンをかけて、ゆるゆると走り出した。

 私はお父さんの背中にあいまいに腕を回して、ヘルメットの小さな視界から通り過ぎる景色を眺めた。くっついた身体が暑いけど、むき出しの腕や脚を切っていく夕方の乾いた風が気持ちいい。毎日太陽に焼かれてうんざりしながら歩いている通学路の風景が、あっという間に後ろへと通り過ぎていく。バイクに乗せてもらうのはずいぶん久しぶりだった。自分は毎日乗るくせに、バイクは危ないんだぞって言ってお父さんは滅多に私を乗せてくれない。小さいころは後ろに乗せてほしくて、何かと理由をつけてはご褒美にしてもらった。私が生まれる前からうちにある、古いけどちゃんと手入れされたカーキ色のバイクは、小さくてドアなんかペラペラで安っぽいうちの銀色の軽自動車よりずっとカッコいいし、ふたりでバイクにまたがっていると、子供じゃなくお父さんの対等な仲間になったみたいでなんだか嬉しかった。歩道いっぱいにあふれるように、派手なオレンジ色の野球のユニフォームを着たいろんな背丈の男の子の群れが歩いているのを後ろから追い抜く。知ってる子が何人かいる気がしたけど、気づかないふりをした。あんなに乗りたかったお父さんのバイクだけど、最近は二人乗りしてるところを友達に見られるのが落ち着かなくて、自分から乗せてもらうことはなくなった。今日はまぁ、成り行き上仕方ないし、何よりそういうことを言える状況じゃない。私は昔教えられたようにできるだけお父さんから身体を離さないように、でもせめてもの抵抗として必要以上にくっつきすぎないように気を付けながら、家に帰ってから言われそうなことを頭の中でいろいろシミュレーションした。

 まっすぐうちへ向かうとばかり思っていたら、バイクは途中で通学路を外れて大通りに出た。どこかに寄って帰るのだろうかとじっとしていると、コンビニを通り過ぎ、スーパーも通り過ぎたあとでやっと左折して、ガソリンスタンドの敷地内で止まった。うちから一番近いこのエネオスは、事務所の半分がドトールになっていて、休みの日たまにお母さんの車でガソリンを入れに来ることがある。今は夕方5時を過ぎて、家に帰る途中の車やバイクが次々にやって来ては、大人たちが疲れた顔で大きな赤いノズルのハンドルを握っていた。
「ガソリン入れるからさ、ちょっと中で待ってて」
 車の邪魔にならない場所で私を先に下ろしてから、ヘルメットを外したお父さんはそう言うと、空いている給油機の方へバイクを押して行った。ランドセルを背負ったまま置いて行かれた私は、用もないのにひとりで店に入るのもなんとなく気が引けてしばらくその場に立っていたけど、給油機の前で順番待ちをするお父さんがこちらを振り返ってアゴで早く入れと言うので、渋々ドトールの自動ドアをくぐった。いらっしゃいませーという間延びした声に迎えられて、どこからどう見ても小学生ひとりの私はまごついて、迷った結果自動ドアの射程距離を注意深く避けて窓際に立ち、親を待っているだけなのを店員さんに分かってもらえるように祈りながらそわそわ外を眺めた。やっと給油の順番がきたお父さんはのんきに財布の中からカードを探したりしている。やきもきしながら待っていた私は、やがて「お待たせ~」という声と一緒にお父さんがドトールに入ってきた時には、学校さぼって親呼び出しを食らったのを半分くらい忘れかけていた。

「遅いよー」
「悪い悪い、並んでたろ。なんか飲んでく?」
「うん」
 店の中で居心地の悪い思いをしていた私は、ほっとしてお父さんの後に続いてレジに並んだ。お父さんはアイスコーヒー、私はカフェラテを頼む。カフェラテは、上のコーヒーと下のミルクが層になってわかれてるやつ。昼間甘いものたくさん飲んだし、シロップは入れないことにした。牛乳がいっぱい入ってるから砂糖がなくても多分いけるはずだ。店の中には他にガソリンスタンドで洗車か何かの作業が終わるを待っているらしい男の人がひとり、テーブル席でスポーツ新聞を広げている。私とお父さんは窓際のカウンター席に並んで座った。ガラス越しに見えるのは、だんだん淡い色になっていく空と通りを忙しく行き来する車やバイクばかりで、次々にガソリンスタンドに流れ込んでは出ていく車の様子を私たちは無言で眺めた。私は隣のお父さんが会話のきっかけを探し損ねればいいのにと念じながら、やっぱり少し苦くて持て余しそうなカフェラテの水面に浮かぶ氷をストローで追い回すのに集中した。

「なんで今日、サボったの」
 私が黙っているのを、お父さんは話しかけられ待ちだって解釈したらしい。何の前フリもなく聞かれて私はもっと黙り込んだ。それを見てお父さんは小さくひとつ息をついて、穏やかな声のまま子どもをなだめるみたいに言った。
「…ひとりじゃなかったんだろ?ほんとは」
 いきなり痛いところをつかれて、ほんの一瞬固まった私をお父さんはちらっとだけ見て、また窓の外へと視線をうつした。どうしよう。嘘をつきとおしてもいい。私が認めさえしなければ、隠しとおすのは多分無理じゃない。でも私がどう答えようと、もうお父さんには嘘だって分かってるみたいだった。

「…先生に見つかったのは、私ひとりだよ」
「見つからなかったのは?ナナちゃん?」

 カフェラテに半分沈んだ氷の滑らかな表面を見つめながら、私はうなずいた。朝、学校に行く途中で塾に向かう菜々にばったり会って、校門に着いたときにはなんか学校に行くような気分じゃなくなっていた。私が冗談めかしてそう言うと、一日の始まりなのに疲れたような顔をしてる菜々は、塾なんてなおさら行きたくないよと笑った。それから私たちは、朝の会が始まってしんとした学校の用具室の裏にランドセルを置いて、こっそり校舎を出た。菜々が持ってたお金でファミレスの目立ちにくい席に入ってドリンクバーで時間をつぶした。昼前になるとお客さんが増えてきて、人目が気になったからゲームセンターに移動した。そこでたまたま見回り中の先生に見つかってしまった。学校に行かずに昼間からゲーセンやコンビニ前に集まっているような子たちがうちの学校には一定数いて、そういう子たちが何かトラブルを起こさないように見回りをしている先生だった。学校では何度か挨拶したことがある程度だったけど、私みたいな普通の(つまり、何もトクベツな注意を払う必要のない)子がどうしたのっていう顔をされて、胃のあたりがぞわぞわした。でも菜々がトイレに行っていたのは運がよかった。あの子は朝から塾へ行ってることになってたから。私は先生に気付かれないようにトイレから出てきた菜々に目くばせして、ひとりで学校へ連れ戻された。

「学校、行きたくなかったのか?なんかあったの?」
「そういうわけじゃないよ。もうやらないから安心して」
 やったことは隠す気ないけどそこから先は教えないよって、私はきっぱり線をひく。こういう言い方をすれば相手はそれ以上聞きにくくなるって、最近だんだん分かるようになってきた。
「ね、お母さんはもう知ってる?」
「ああ。学校から電話で聞いたことはさっき軽くメールしといた」
 娘が丸一日学校サボったなんて聞いたら、お母さん倒れちゃうかも。そうじゃなくても家に帰ったらあれこれ問い詰められるのは確定だ。気が重すぎるけど、お母さんだってそうしなきゃいけない立場っていうのがあるんだろうし、自分のやったことだからしょうがない。ここは失うものを少なくするのが先決だ。

「お父さん。菜々と一緒だったことはお母さんには黙っといてくれない?塾行ってたことになってるから」
 はじめて目を合わせてそう頼むと、お父さんは片方の眉だけ持ち上げて、やれやれという感じでちょっと肩をすくめて見せた。
「いいけど?そのうちバレるんじゃないの」
「いいんだよ。本人がちゃんとできるまでで。お母さんが知ったらすぐ向こうの親に言うでしょ」
「そりゃま、そうだろうな」

 お父さんはストローを軽く噛みながらちょっと思案顔になった。グレーのシャツの肩のあたりから、かすかにタバコの匂いがする。さっきはヘルメットしてたから気付かなかったんだろう。この匂いはお父さんが昔吸っていた銘柄のタバコだ。お父さんは昔から家族の前ではめったにタバコを吸わなかったけど、たぶん間違いない。最近また吸い始めたんだろうか、何年か前に吸わなくなったはずなのに。
 お父さんがまたタバコを吸うようになった理由も、そもそも辞めた理由も私は知らない。お母さんはタバコの匂いが嫌いだっていつか言っていた。それでやめてもらったのかと思ったら、タバコを吸ってるお父さんのことは別に嫌いじゃないんだって。お母さんはお父さんのこと結構好きだよねって言ったら生意気だって笑われた。私とお母さんはたまにそういう話をするんだけど、お父さんとはしない。もちろんお父さんがどういう人か私はよく知ってるんだけど、こういうとき時々、薄いカーテンの向こうに私の知らないお父さんが隠れてるような感じがする。お母さんと違って私は、タバコを吸っているお父さんのことがあまり好きじゃなかった。リビングのカーテンの向こうに半分だけ見える、夜のベランダでタバコを吸いながら遠くを眺める背中。こちら側からは分からないその顔は多分私の知らない顔だ。匂いの記憶が、昨日菜々が冗談で言ったこととふんわりとつながって、そのまま言葉になった。

「…お父さんって、もしかして浮気してる?」
頭に浮かんだ疑問を素直に口に出すと、お父さんは盛大にコーヒーを噴き出した。
「ぶ、…っへ、何て?」
「お父さんの様子が最近変だって言ったら、菜々がさ、それ浮気してんじゃないのって」
「なんでそうなんの!てか変?変ってどこらへん?」
目を白黒させながら、横の席に置いてあるペーパータオルをごっそり取ってテーブルの上を拭いている。こんなに慌てた姿はめったに見たことがない。自分で聞いておきながら、本当だったらどうしようというかすかな不安がよぎったけど、こうなったら全部聞き出すしかない。

「週末よく出かけてるし」
「それは大楠たちと…」
「この前は珍しく車乗って行った」
「アシがないっていうから…」
「急に変な髪型してたし」
「変ってそれのこと…?」
「タバコもまた吸ってる」
「それはなんとなく」
「だから、もしかしてほんとに昔の彼女とまた会ってるのかなって」
私はどうだと言うようにお父さんの顔を見据えた。立場逆転、でしょ。

 お父さんは机につっぷして、今日は固めてない頭をぐしゃぐしゃにかき回しながら消え入りそうな声でうめいた。
「あのさぁ、してるわけないでしょお父さんが浮気なんて…」
 それを見た私はちょっと可哀想になった。ほとんど氷水になった残りのアイスコーヒーに腕が当たりそうになったのを、黙って奥に避けてあげながら言った。
「分かってるよ、聞いてみただけ」
 わかってるよ。お父さんは自分のせいで私やお母さんが悲しむようなことは絶対しない。それは多分、さっき私がお父さんに嘘をつかなかったのと同じような、信頼とかそういう話。

「そんな様子おかしかったかなぁ…」
「隠してるつもりでもなんか出てるんだよね、ソワソワしてる感じが」
「ソワソワ…」
 地味に凹むわ、髪型が変て…とかひとしきりブツブツ言っていたけど、それからやっと、気を取り直したように少し背筋を伸ばしてこっちを向いた。

「あのな、昔の友達が帰ってきたのよ。ずっと…13年もアメリカにいた友達が」
「仲良かったの?」
「仲いいっていうか…それ以上っていうか」
「菜々と私みたいな」
「そうだなぁ…そう、友達っていうより家族みたいな、特別なやつだった。いや、今でもそうなんかな…」
 ふぅん、と私は考え込んだ。ずっと遠くに居た友達が帰ってきたら嬉しいに決まってるけど、それにしてもお父さんに限ってちょっと浮かれすぎじゃないだろうか。それって、のんちゃんやオークスやチュウとはなにか違うのかな。
「もしかしてその人って、バスケしてる?」
 私は付箋の貼られた雑誌のページを思い返した。真っ赤な髪と、りりしい眉毛の下い光る目の光、汗で濡れた筋肉。ボールを掴む長い腕と大きな掌に目をひかれて、しばらくじっと見つめてしまった。写真の中でぶつかりあってる外国の選手に負けないくらい、大きな男の人。これまで出会った誰より強そうで、眩しい光を浴びていて、別の世界の人みたいだった。あの人がお父さんと並んで立ってるなんて想像できない。写真につけられたタイトルはたしか、『ついにアメリカから帰ってきた問題児―――』名前はなんだったっけ。

「お前ってさぁ、ほんとたまに怖いわ」
 お父さんはそう言って、眉毛を下げて笑った。
「そう、そいつはプロのバスケット選手。すごいだろ」
「プロって、サッカー選手みたいな?」
 地元にはJリーグの大きいチームがある。学校でもよく試合やサッカースクールのチラシが配られてるし、イベントで選手やマスコットの着ぐるみが学校に来たこともあった。私が思い浮かべるプロ選手といえば、テレビに映るサッカー選手だった。CMやテレビに出てたり、芸能人みたいな。ますます別世界だ。
「うん。あんまりメジャーじゃないけど、バスケにも野球やサッカーみたいなプロがいるの。それでそいつは、ずっとアメリカでめちゃくちゃ頑張ってきて、次は日本でプロとしてめちゃくちゃ活躍する予定」
 自慢するような口ぶりは、お父さんにしては珍しい言い方に聞こえた。その人はほんとにすごくトクベツな友達なんだ、きっと。
「お父さんにそんな友達がいたなんて知らなかった、なんか意外。」
「だろ、俺も意外。すげーやつだよ。すごすぎて、日本に収まってられなかった。だから遠いとこへ行っちまったんだ」
 そう言って窓の外を見たまま笑った。その横顔がすごく嬉しそうなのに寂しそうな顔に見えて、私は思わず目をそらした。

「…お母さんは知ってるの?」
「もちろん知ってるよ。会ったことはないけど」
「その人が日本に帰ってきたことは?」
「言ってない。別に隠してないけど」
「言えばいいのに」
「言わなくてもいいだろ」
「いつかはバレるよ」
「そのうちちゃんと言う」
 大切な友達が帰って来てそわそわしているお父さんのこと、お母さんはどう思うだろう。ここ最近仕事が忙しくなって大変みたいだから気づいてないだろうか。それとも私が気が付くくらいだから、とっくに知っているだろうか。

「それならやっぱり交換条件だね。菜々のことは黙っといてよ」
―――分かったよ」
 お父さんが降参と言う風に両手を上げて、私は意気揚々と残りのカフェラテを飲み干した。今ここで、同じだけの重みがあるものとして交換された私の秘密とお父さんの秘密は、本当に天秤に載せたらどっちに傾くだろう。秘密に重さがあるなら、それを決めるのは罪の重さだろうか、それとも隠されたものの大切さだろうか。お父さんにはやっぱり、普段は注意深く隠してる部分があって、私はきっと少し強引にそこへ光を当ててしまった。当たり前だけど、お父さんにはお父さんの過ごしてきた長い時間があって、その中で見つけた大事なものがある。私と同じように。それは私や、もしかしたらお母さんにも触れられない場所なのかもしれない。そう思うと寂しい気もしたけど、別に嫌じゃなない、多分。そろそろ行くかと言ってお父さんは立ち上がった。びっしょりと露がついたカフェラテとアイスコーヒーのグラスを片付けて、私たちは店の外へ向かった。

 夕暮れ時のガソリンスタンドはどこもかしこも夕陽のオレンジ色に染まっていた。ドトールの中が少し寒すぎたから、ぬるい風が温かくて気持ちいい。お父さんにバイクのヘルメットを手渡されながら、そういえばもう一つ聞きたいことがあったのを思い出した。
「あのね、お母さんにこの前聞いたんだけど。お父さんってさ、グレてたってほんと?」

 昔のお父さんがどんな風だったのか、リーゼント事件のときにお母さんから少しだけ教えてもらった。お父さんとは高校生の頃のバイト先で知り合って、そのころからバイクに乗ってタバコも吸って、典型的な不良少年だったらしい。バイト先にスタジャン姿で現れる目つきの鋭い男子高校生は、バイト仲間の間の噂ではものすごく喧嘩が強いって話で、怖い子(お母さんは当時のお父さんのことをそう表現した。年下のちょっと怖い子、って)なのかと思ったら一緒に仕事するとすごく気を使ってくれるし、優しくてびっくりしたんだって。あと、やっぱりちょっとカッコ良かったらしい。目の前のお父さんは、そんな話が信じられないくらい目立たない、ごく普通の30代のおじさんだ。友達からクールでカッコいいなんて言われたことも何回かあるけど、毎日働いて生活してる普通の大人で、私にとってはまぁ、結構優しいし話もできる悪くないお父さん。私はそんなお父さんから驚くような武勇伝が聞けるんじゃないかと期待した。だけど、返ってきたのは私が想像した答えとはずいぶんちがっていた。

「グレてたかって言われたらまぁ、そうなんだろうな」
「ね、どんなだったの?」
「そうだな…」
 お父さんは昔の自分に思いを馳せるように、バイクのハンドルにもたれかかって少し遠くを眺めた。
「今お前はちゃんとしてるけどさ。もしお前の学校に俺のこと知ってる先生がいたら…やっぱり水戸の子だとか思われるかもって。そういうレベルのワルだったよ俺は。喧嘩は数え切れないくらいしたし、警察におっかけられたこともある。先の事なんか心底どうでもよかったんだ、その時は。校区は違うけど隣町だから、もしこの先中学や高校で、俺のせいでひかるに迷惑かけちまったらどうしようって、実はずっと心配してる」

 こちらを振り向いて私の目を覗き込んだお父さんは、私がよく知ってる顔で言った。
「だからお父さんはさ、お前が一回くらいサボってとやかく言えるような大人じゃないんだよ、ほんとは。それでもやっぱりやめてほしい。昼間っから街うろうろしてると、危ないことが多いのは確かだから」

「…ごめん」
 それしか言葉が出てこなかった。お父さんは一番言いたいことを正面から言った。どうせちょっとした気の迷いだとか、悪ぶってみたかっただけとか、ガキだから馬鹿なことするんだとか、そういう決めつけは一切しないままで。 俯いたまま自分のつま先と、そこから地面に伸びた影を視線でなぞった。私は本当の事を言おうとするときほど相手の目を見られなくなる。余裕ぶってるくせに、ほんとは臆病で嘘つきな自分が嫌いだ。

「菜々がね、受験勉強うまくいってないんだって」
誰にも言わずに隠しておくつもりだった私の弱い本心が、せきを切ったように勝手にあふれ出した。
「私、このままうまくいかなきゃいいのにって思ってるの。口では笑顔で頑張れって言いながら」

 頑張ってる親友のことは心の底から応援してる。好きだったゲームや遊びに行くのを我慢してるのも、家でずっと宿題や予習をしてるのもよく知ってる。いままで気付かなかっただけで、私たちはあらかじめ違う箱に振り分けられていて、そういう暗い気持ちをずっと感じながら、私は菜々と電話やノートの上でおしゃべりを続けている。

「だって、だって合格したら横浜の学校にいっちゃう。家も引っ越すかもって。ずっと一緒に居たのに。あの子自身は何のために受験するのかもわかんないんだよ。でも菜々の家ではそれが当然なんだって。うちとか、まわりとは違うんだよ。こうやって道が分かれていくんだって思うとさ、どうしようもなくて… なんかそういうの考えてモヤモヤしてたら、学校なんかどうでもよくなって、それで今日は私から誘ったの。ほんとに、菜々は悪くないんだ」
だから言わないで。小さな声でそう頼んだ。

 視界が滲んでぼやけた。カッコ悪い自分が嫌でしょうがないし、それ以上に自分じゃどうしようもないことが多すぎるこの世界が大嫌いで、力いっぱい何かを傷つけたくて、でも私にはそれさえできなかった。

「なぁひかる。思ったんだけど」
 黙って聞いていたお父さんがようやく口を開いた。
「ついて行かないの?中学校」
「え?」
「ナナちゃんと一緒に居たいならおまえも受験すりゃいいだけの話じゃん」
 分かり切ったことだというように真顔で言ってのけたお父さんを、私はまじまじと凝視した。突然何を言いだすんだろう。あまりにぶっ飛びすぎてて、付いて行けずに私は混乱した。

「は?え、まって」
「受験するんだよ。その、横浜の?同じ学校」
「え、やだよそんな…いろいろ大変だし」
「そうか?」
 お父さんは絶対何も分かってない。菜々や菜々の家がどんなに大変かも、私がこれまでそれをどんな気持ちで、何を我慢しながら見てきたのかも。

「…あのね。お金だってすっごくかかるらしいよ。それでもいいの?」
「いいに決まってるだろ。何のために親二人で稼いでると思ってんの」
 自慢じゃねーけど高卒にしては異例の出世コースだぜ俺は。そう言ってお父さんは力こぶを作るまねをした。小さい町工場が買収されて大変だとか社長が倒れたとか色々言ってたの、私が知らないとでも思ってるんだろうか。お母さんだって資格があるのに給料低いってよくこぼしてるじゃん。言いたいことは山ほどあったけど、上手く子供扱いされて腹が立つのと申し訳ないのとで気持ちがめちゃくちゃで言葉にならない。
「今から塾行って、勉強しても受かるとは限らないよ」
「受からないとも限らねーだろ。おまえ勉強、普通以上にはできるじゃん。今からでもなんとかなるんじゃねぇの」
「でも…でも、いいのそんなフジュンな動機で。うちは何ていうか、」
「なんていうか?」
「…そういうんじゃないじゃん」
「あのな、やりたいことがあって、可能性があるのにやらない手は無いだろ」
「でも」
私が視線を逸らしながら食い下がると、お父さんは大きなため息をついてこちらに向き直った。

「いいかひかる。選んだことが正解かどうかなんて最後までわかんないよ。俺にもまだ全然わかんない。だけど、我慢したことはこの先絶対ずっと後悔する。だから自分の気持ちに蓋する必要なんかないよ」
 まっすぐ私の目を見てそう言ったお父さんは、力強くはっきりとした声でそう言った。わかんないって言った時のくしゃっとした笑顔は、笑っているというよりまるで泣いてるみたいだった。その痛みがどんなものか私には想像もつかないけど、お父さんが私のお父さんとして今ここにいるまでの時間が、そういう顔をさせたんだってことはわかる。お父さんの31年。私のいない20年と、私のいる11年。お父さんはそれから、私に聞こえないくらい小さく呟いた。
「まぁ後悔した先にまた別の大事なものができたりもするんだけどな」
「え?」
「いや、こっちの話」

 いこうぜ、そろそろ晩メシ作らなきゃとお父さんが先にバイクにまたがった。確かに夕陽はだいぶ傾いて、空の端っこがもう深い青色に変わっている。左の肩に半端に背負いっぱなしのランドセルが重かった。

「今の話、冗談とかじゃないからな」
「…わかった。考えとくよ」
 これもお母さんにはまだ言わないでよと付け加えると、お父さんはオッケーと笑った。結局私の秘密の方が多くなってしまったのを少し残念に思いながらヘルメットをかぶると、わざわざ振り向いてバイザーを下ろしてくれるので大人しく甘える。その表情がなんとなくスッキリしてる気がして腹立つけど、私も胸につかえていたものがなくなって息がしやすくなった気がする。こんな風にそれぞれが抱えた秘密を隠したり分け合ったりしながら、それぞれが先に進んでいけるんだってことが、私にもなんとなく分かってきた。家族とか、友達とか。まだ何者でもないし何もできない私は、それでもたくさんのものを持っている。
 後部座席にまたがってしっかりお父さんの服を掴むと、バイクは私たちの家に向けて夕暮れの町へ走り出した。

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