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青の幽霊(9)

2011年3月中旬 30歳

※作中に東日本大震災に関する具体的な記述が含まれます。ご注意ください。

 金曜日の午後、オフィスビルの一角に設けられた会議室では、グループ全社の中堅社員を対象とした講習会が行われていた。2日間の講習は終盤に差し掛かり、外部講師を招いての授業が行われているところだ。ずらりと並んだ長机に等間隔に座った40人ほどの参加者たちは、あるものは会議室の後方に陣取った本社人事部の覚えめでたくするべくうなずきながら勤勉にメモをとり、またあるものは週末の予定を思い浮かべながら上の空で講義を聞き流している。ブラインドの隙間から差し込む太陽の光が耳ざわりのいい講師の声と相まって、会議室にはまったりとした午後の空気が流れている。ジャケットの胸ポケットに「水戸」とマジックで手書きした名札を付けた洋平は、会議室の後方でペンを弄んでした。3月に入って寒さが緩んできたせいか、少々効きすぎの暖房が眠気を運んでくる。

「コーチングの手順は次の5つになります。傾聴、承認、質問。そしてフィードバックとリクエスト。順に見ていきましょう」

眼前のスクリーンに、無遠慮なゴシック体の太字が次々とフェードインしてくる。

「コーチと本人の対話を通じて本質的な課題を発見し、一緒に解決の方向性を探ることにより、本人の自発的な行動を促します。その点で、コーチは教師や指導者ではなく、本人と対等な関係と言えます」

 相手の考えを聞き取ってまずは同意を示し、コミュニケーションによって一緒に深堀していく。どれも洋平自身が大昔からやってきたことだ。洋平は出かかったあくびを噛み殺す。慣れ親しんだ駄菓子を大仰なパッケージに入れ直して目の前に並べられているような気がして、どうしても気持ちがシラける。

 会社が買収されて以降、新しい会社ではコンプラ教育だとかリーダー研修だとか、こういった集合教育の場に半強制的に参加させられることが増えた。役に立たないとは言わないが、一日中うすぼんやりと人の話を聞いて、分かったような分からないような気分だけ持って帰るのは何度経験しても好きになれなかった。慣れないネクタイを緩めて、早く新鮮な外の空気を吸いたい。日ごろの立ち仕事に比べれば一日座ってるだけで給料がもらえるなら楽でいいかと思ったが、金属を削る音や、切削油の独特の匂いで満ちた工場が既に懐かしい。こんな風に退屈で死にそうな気持ちを味わうのは、思い返せば学校というものを卒業して以来のことかもしれない。

 高卒で勤めて今年で12年になる金属加工の会社が、もとは主要な取引先だった大手鉄鋼メーカーの傘下に入ったのはおととしのことだった。不況で財務状況が悪かったところに社長が体調を崩し、救済に近い形で(つまり買い手がつかないところを破格の安値で)買い取られた。取引先が親会社となり、親しんだ社名が変わってしまったことよりも、快復して戻ってきた社長の裁量が以前よりずっと少なくなって、赤の他人と呼ぶには世話になりすぎた彼が時折見せる憔悴したような笑顔が洋平の気持ちを暗くした。彼は洋平が出会った師と呼ぶべき初めての大人だったし、入籍や出産の際には一番に報告して祝福してもらった相手だった。受けるつもりのなかった管理職試験を受けたのは、社長に勧められてなかば元気づけるつもりでのことだ。

 ほどなくして洋平は隣町の工場への異動と同時に管理職級の役職へ昇進した。管理職とはいっても小さな工場の中だ。これまでの業務が手を離れるわけもなく、設計や加工作業の傍ら、メンバーの育成や評価、労務管理などの仕事が加わったに過ぎない。高卒としては異例の昇進を祝福する同僚たちには形だけだよと苦笑いで応えたが、実際スズメの涙ほどの役職手当と引き換えに今日のような講習会を受けさせられるのだから、面倒の方が多いくらいだった。これまでの働きぶりによる評価や周囲から得た信頼あってのことだろうが、本社側には氷河期で数の少ない中堅を管理職に育てたいという思惑もあるらしい。本社ビルの近く、普段なら足を踏み入れることのない都心部の高層ビルの会議室では、各グループ会社から集められた洋平と同じくらいの年代の人間が、皆一様に生気の無い目をして並んでいた。

「ここまでコーチングの要素についてご説明しました。休憩をはさんで、次はみなさんで簡単なロールプレイをやってみましょう」

 画面が切り替わって「10分休憩」の文字が映写されると、部屋の空気は目に見えて弛緩した。何人かが席を立って手洗いや喫煙所へと向かい、洋平も眠気覚ましにコーヒーでも買いに行くかと立ち上がる。出口に向かいながら胸ポケットに入れていた私用ケータイを取り出すと、メール着信を知らせる青いLEDが明滅していた。メタルグレーの背面に付いた小さな黒い画面に「高宮」の文字とメールの絵文字が光っているのを見て、洋平は片手で折り畳み式の画面を開いた。

『そろそろ例のアレ送るぜ』

 高校からのツレ、高宮望からのショートメールの文面は短くそれだけだ。
 例のアレ。この10年余りの間に昔よりさらにふた回りほど育った高宮の丸顔が、頭の中でそう言ってニヤリと笑う。一見物騒な内容に見えなくもない文面に、思わず笑みを含んだ吐息が漏れた。

 もう2週間もすれば桜の季節だ。それはつまり、桜木花道の誕生日が近いことを意味する。腐れ縁とでもいうべきだろうか。高宮はじめ大楠、野間というかつて「桜木軍団」と呼ばれた面々とは、高校を卒業して10年余りが経った今も変わらぬ付き合いが続いている。地元の湘北校区で飲食店を営む高宮のところで、示し合わせずともひとりふたりと立ち寄ってはだべりながら飲むのが常だが、毎年この時期には必ず全員で集まって、お決まりのある行事を行うことになっている。

 洋平が社会人になって12年ということは、つまり花道がアメリカに旅立ってからそれと同じだけの時間が経ったということだ。はじめは月に1回だったエアメールが、ひと月おきになり半年に1度になり、電子メールが普及してからも、ケータイやパソコンといったガジェットに疎い花道から返事が返って来るのは奇跡のような確率だった。それでも年に1回、こうして誕生日に合わせてありったけの食料や日用品を詰めた段ボール箱を日本から送る「高宮便」だけは12年間途切れることなく続き、そのお返しにお礼と近況を綴った(花道にしては)長い手紙が届くのが、いつしか恒例になった。

 米、みそ、高野豆腐、だしパック、めんつゆ、カレールー、ふりかけ、ばんそうこう、バファリン、歯ブラシ、サランラップ。それぞれが持ち寄った日持ちのする食べ物や、向こうで手に入りにくい日用品をぎゅうぎゅうに詰め込んで、毎年重さは20kgを優に超える。今年は何を持っていこうか。この前入れた真空パックのシウマイは日持ちするし、かなり喜んでいたからまた入れてやってもいい。アロンアルファを送ってほしいと頼まれたのには驚いたが、世界最強の瞬間接着剤は破れたバッシュの補修に大活躍だそうだ。大楠は、去年離婚して出戻ったばかりの実家からなぜか大量の乾燥わかめを持たされて、それが緩衝材替わりに役立った。花道にも意外と好評だったようだ。贈り物というのは、相手の反応を想像しながら品物を選ぶ時が一番楽しい。

「了解」

そう短くメッセージを打ち込んで送信ボタンを押すと、洋平はショートメールの画面を閉じた。

 ケータイの待ち受け画面には着物姿の女の子が写っている。それは洋平の娘の七五三の写真だった。建てたばかりの家の前で、着物姿のひかるがすました顔の口元に少しだけ笑みを浮かべて立っている。写真は7歳のときのものだが、低学年の子にしてはずいぶん大人びた表情だといつも思う。顔つきはどちらかといえば妻の茜に似ているものの、性格やふるまいが洋平にそっくりだと時々言われる。4年生になった今は背丈も伸びて、父親のケータイの待ち受けが自分の晴れ着姿なのを見て複雑そうな顔で眉をひそめたりもする。やめた方がいいかとからかうつもりで聞けば、お父さんがそうしたいならいいんじゃないとそっけない。そういう受け答えの仕方は、言われてみれば確かに自分に似ているかもしれないと思う。待ち受けには写っていないが、この日は妻の両親と洋平の母親も一緒に参拝して、全員が写った大判の家族写真は今も家のリビングに飾られている。スーツ姿で無難な笑顔を浮かべて写真に納まっている自分と、訪問着をきっちり着込みひかるの傍らでしゃんと背筋を伸ばして笑う母親の姿は、何度見ても洋平を不思議な気持ちにさせた。

 数年前に実業家の男と再婚した彼女は今、関西に移り住んでいる。洋平はこどもの頃から母親と自分との関係の薄さを自覚してきた。茜との結婚の際にも、式を挙げなかったこともあって報告だけで済ませ、お互い特に何の感慨もなかったと思う。それがどういうわけか孫娘が生まれて一変した。遠方からやってきては食事に連れて行ったり運動会や参観日を見に来たり、すっかり孫が可愛くて仕方ないおばあちゃんになった。ひかるが小さいころは病気の時に駆け付けてもらったりして正直助かったし、ひかるもばあばのことが大好きだ。人は変わるものだと洋平は思う。人の生き方を最も大きく変えてしまうのはこどもの存在かもしれない。否応なしに既にそこに居て、何があっても守り育てなくてはならないから。こどもが受け取れる愛情は多ければ多いほど良い。変わったというなら、それは洋平も同じだった。

 家族がいて、病気もせず事故にも遭わず、働いて食べて寝て、穏やかに続いていく毎日。いつまでも幸せに暮らしましたとさ、めでたしめでたし。そんな今を、子供の頃の自分は想像したことがなかった。できなかったと言った方が正しい。昔の暮らしに比べればどこもかしこも絵に描いたように普通に平穏で、まるで他人の人生を生きているみたいだった。それも何の因果か、身の丈に合わないほど『幸福』な男の人生を。20歳そこそこで思いがけず子供ができた時から、茜とふたりで選び取ってきた道だし、不況の中それなりに懸命に働いてつかんだ暮らしだという自負もある。それでも、本当に自分はここに居ても良いのかというしっくりこなさが常に心の奥底に潜んでいて、例えば風呂上りの娘の髪を乾かす時とか、休日に自分が作った昼食を家族と食べている時とか、そういう何気ない瞬間に意識の表面に顔を出した。

 自分の現在地にかすかな違和感を覚えるとき、思い出すのは決まって遠く海の向こうにいる友人のことだった。洋平から半年遅れで間もなく30歳になる男は、まだ結婚もしていなければ、毎年そのシーズン限りの契約選手という身軽な、言い換えれば不安定な身分で、それでもアメリカの地で10年以上逞しくバスケを続けている。最後に直接顔を見たのはもう何年前になるだろう。大楠の結婚式にサプライズでビデオレターを送ってもらったのがおととしのこと。その少しあとに、試合中アキレス腱を負傷したらしいという知らせが入った。2シーズンを過ごしたローカルリーグからNBA下部リーグであるDリーグのクラブに移籍して間もなくのことだった。湘北OBたちは、その年赤木と流川が代表に選ばれたアジア大会に花道が出られなくなったことを残念がったし、プロになって初めての大きなケガは皆を心配させた。こちらからの電話もメールも通じずにやきもきさせられたが、しばらく経って本人からあっけらかんとした国際電話がかかってきて、洋平たちは胸をなでおろした。Dリーグでのリハビリとトレーニングの環境は申し分なく、本人はより強い身体をつくってコートに戻ることを目標に前向きにやれているらしかった。その言葉どおり、今シーズンは秋の開幕戦から無事ベンチ入りし、以降は徐々にプレータイムを伸ばしている。動く姿こそなかなか見られないが、今はネットを通してその日のうちに試合結果を知ることができる。たまに花道のプレーが写真やコメントでピックアップされているのを見つけると、良い時代になったもんだとつい年寄りじみた感慨が湧いてくる。

そういや花道の声、しばらく聞いてねーな。

 電話もかかってこないし、年末に上がっていたプレー中の動画にも声は入ってない。距離も、時間も、心の近さも。人の道はこうして離れていくものだ。高校のツレたちとの付き合いは変わらず続いているが、一番近くにいた奴が一番遠くに行ってしまった。花道がこのまま日本に帰ってこなかったとしても不思議はないと洋平は思っている。あいつらも薄々そう感じているらしく、最近では飲みの席でも花道がいつ帰って来るかという話をしなくなった。考えてみれば当然のことかもしれない。食べ物から何からスケールの大きい町も、190センチを超える赤毛の大男でも全然浮かない多様な人々も、きっと花道には合っている。何より、向こうには世界最高のバスケがあるのだから。

 飲みかけの缶コーヒーを手に席に戻ると、すでに他の参加者は自分の席で講習が再会するのを待っていた。最後に洋平が着席すると、それを見計らったように講師が立ち上がって会議室のドアを閉めに行く。学生のころ、幾度となくこういうシーンがあったことを思い出す。あの頃の自分はいつだって、静まった教室の平穏を乱す側だった。

 休憩後は講師の予告どおり、ロールプレイングのために4人ずつのグループに分かれた。前日のグループディスカッションでも同じ組で顔見知りになったメンバーと目が合って、軽く会釈を交わす。今日の講習会の後には懇親会が予定されていて、おそらくこういう相手との横のつながりを期待されているのだろうが、いい加減ダルくなってきた洋平はできればフケたかった。講師が手順を説明する声を聞き流しながら何か適当な理由が無いかと思案しはじめたとき、耳に聞き慣れない音が届いた。

 不穏に響いた低音は、一瞬雷鳴のようにも聞こえた。が、それは止むことなく鳴り続け、しかも徐々に大きくなっていく。空からではなく足元全体から這いあがって来るようなその音は、雷なんかではなかった。

「地震だ!」

 誰かが叫び、ややあってますます大きくなる地鳴りとともに、小刻みな揺れがやってきた。動揺したざわめきが広がる中で洋平が身を低くして構えた瞬間、会議室は尋常ではない揺れに突き上げられた。

 

 数時間後、洋平は夜のビル街の谷間をさまよう群衆のひとりになっていた。
 経験したことのない大きな揺れの後も断続的に余震が続く中、洋平は他の参加者たちと連れ立って、エレベーターが止まったビルから非常階段で脱出した。周りの建物からも、同じように仕事中に罹災した人間がぞろぞろと出てきては、所在なさげにそこここに留まって、携帯電話でだれかに連絡を取ろうと試みたり、ニュースサイトで情報収集していた。一見して建物の被害はなくとりあえず身の危険はなさそうだったが、頭上を飛び交うヘリの音がひっきりなしに聞こえていて、突然非日常の事態の中に放り出されて不安なのは皆同じだった。頼みのケータイは通信網が地震で被害を受けてしまったのか、かけてもかけてもなかなか通じない。非常事態に右往左往する本社のスタッフを促して、とりあえず本社まで徒歩で指示を仰ぎに行ってもらったが、待てど暮らせど指示が下りてこないようなので、現場判断で全員の無事を確認して解散となったころにはもう陽が傾いていた。

 とはいえ、だ。鉄道はJRも私鉄も止まっていた。唯一神奈川方面行きが動いていると聞いた私鉄の駅が徒歩圏内だったので向かってみたものの、到着すると少し前に運行をやめてしまったところで、それで洋平の帰宅の足は完全になくなってしまった。ケータイに限らず電話はほぼ通じないし、ショートメールも送れない。余震を知らせる緊急メールだけがひっきりなしに届くせいでケータイの充電は減る一方だった。救いだったのは唯一ネット通信は生きていて、SNSの掲示板で仲間に連絡がついたことだった。近くに住んでいる高宮が洋平の家まで行って、家族の無事を確認してくれた。地震発生時に学童に居たひかるは、職場から早退してきた茜が引きとりに行って無事帰宅できたらしい。連絡が取れない中で、すぐに行動してくれた妻に感謝した。余震や停電の恐れはあるものの、家に居れば滅多なことはないだろう。海岸線からも距離はある。

 SNS経由で家族や友人たちの無事を確認すると、とりあえず差し迫ってやるべきことがなくなってしまった。直属の上司が安否連絡を待っているかもしれないが何度か連絡してもつながらなかったので、eメールだけ送りあとは本社の人間に任せることにして、洋平はケータイを閉じた。本社と言うからにはそれくらいはやってくれるだろう。

 さて、どうするか。いつもならこの時間足早に帰路を急いでいるたくさんの人間が、行く当てをなくして街に溢れかえっていた。春が近いとはいえ夜はまだまだ冷え込む。駅構内に座り込んでいつになるか分からない電車の復旧を待つのは我慢できそうになかった。駅前のロータリーにはバスを待つ人たちの長蛇の列ができているが、こちらもいっこうにバスがやって来る気配はない。寒さを増していく夕刻の町で、街頭のモニターに流れる緊急ニュースは、刻一刻と明らかになっていく地震の被害を報じ続けていて、時間が経つにつれ事態はより深刻になっていった。それは数時間前に地震の揺れに襲われた誰もの想像をはるかに超えたとてつもないものになりつつあった。個人の力の及ばないものによって突然日常が強制終了される無力感に襲われそうになって、洋平はこめかみを押さえた。自分の力の及ばないことはある。ともかく身近な人の安全は確認できた。これから仕事や暮らしへの影響がどれくらい大きくなるか、今はまだ分からないが、とにかく目の前のことに集中するしかない。家族の顔を見るにしろ職場を手伝いに行くにしろ、一度神奈川に帰らなくては。駅周辺の人ごみと情報の濁流に疲れ、洋平は徒歩で家へ向かうことを選んだ。

 西へ向かう幹線道路は見たことが無いほどの渋滞で、その脇の歩道も家へ向かって歩く人でごったがえしていた。停電している地区もいくらかあるようで、行く道の先を眺めると、ところどころに真っ暗な区画があるのが見える。あそこにある家々の中で、住人たち―――たとえば茜とひかるのような母や子が、どんな気持ちで夜を過ごしているのか考える。地元は電気は無事だがガスが止まっているとさっき高宮が教えてくれた。まだ小さい赤ん坊がいる高宮のところも大変に違いないのに、そんな中で安否確認や仲間たちの連絡係を率先してやってくれている。この状況が落ち着いたら、野間や大楠と一緒に店に何か差し入れでもしようか。

 洋平と同じように交通機関を諦めて徒歩で家路についた人々の列は、テールランプの赤色に照らされながら、途切れることなく続いていく。誰もが疲れた様子で無言のまま歩いてゆく様は、まるで世界が終わる前夜のような異様な景色だった。それは言い過ぎとしても実際夜になれば寒いし腹も減ってきて、胸の内には毛羽立つような不安と凪いだ虚脱感が同時に満ちてくる。何件目かのコンビニで水と菓子パンは調達できたものの、60㎞あまりを夜通し歩き続けるのが心身にキツいだろうことは容易に想像できた。寒さにも空腹にも昔はもっとずっと強かったはずなのに、温かい家と規則正しい生活に慣れきった身体にはこんなにも堪える。洋平はぶるりと身震いして、コートの前をかき合わせた。

 その時だった。突然息を吹き返したように、ポケットの中でケータイが鳴り始めた。

 *

 平日夜にも関らず1万人を超える観客が詰めかけたアリーナは、割れんばかりの歓声と興奮に包まれている。試合は第4クォーター残り5分を切った。ハーフタイム明けに15点あった点差はじりじりと縮まって、電光掲示板が示すスコアは89対86の3点差。直近3試合を100点ゲームで連勝して波に乗る、ここダラスをホームとするDリーグの古豪は、ボストンからやってきた格下のゲストチームから予想外の追い上げを受けていた。ホームベンチに集まった選手たちの人垣の奥ではコーチがつばを飛ばしながら激しい口調で指示を与え、選手たちは一言も聞き洩らすまいとそれに聞き入っている。熱狂するアリーナの声援は、それ自体が質量を持ったかのように、負けられないプレッシャーとなってホームチームの上にのしかかる。一転して追い上げるアウェーチームのベンチは緊張感を漂わせながらも比較的穏やかだ。コートに出ていた5人が並ぶ正面にひざまづいた年配のコーチは、作戦ボードにペンを走らせながら淡々とタイム明けの作戦を伝えている。

 両チームともよく走りよく守るタフなゲームはいよいよ佳境だった。選手たちは皆汗で全身をつやつやと光らせていたし、火照った身体から立ちのぼる湯気が目に見えるほどだ。ホームのファンたちが上げる歓声も、敵チームに向けられる少々口汚いヤジでさえも、もはや選手たちの耳には直接届いていない。作戦ボード上にあるのが自チームと相手チームを表すマークとその先のリングだけなのと同様、彼らはコートの中で起こることだけに集中している。やがてアウェーチームのコーチは言葉を途切れさせると顔を上げ、ハドルの端で耳を澄ませていたひとりの選手を呼び寄せた。この競技には珍しいアジア系の男の背には、10の番号とSAKURAGIの文字がある。彼は前半、2メートルを優に超す敵チームのビッグマンを相手にディフェンスとリバウンドに身体を張り続け、しかしその結果早い時間帯でファウルトラブルに見舞われて、この時まではコート外から声援を送ることで味方を鼓舞するのに専念していた。彼は黙ってコーチの前にしゃがみ込んでその目をひたと見据え、少し唇をとがらせて集中した表情で次の言葉を待ちかまえる。

「ハナ、頼んだぞ。お前のエナジーが必要だ。チャンスがあれば遠慮せず行け」

 ハナと呼ばれた赤毛の選手は、目を見張って一瞬驚きを含んだ表情を見せた。コーチの言葉を吟味するような間をあけ、それから意を決したように強くうなずいた。コーチはそれを見て取るとわずかに目尻を下げた。交わされた言葉は短かったが、彼らの間にある強い信頼関係を思わせた。タイムアウトが残り10秒を切って選手たちが次々に立ち上がる。赤毛もコーチも立ち上がり、円陣の中央へと拳をつき合わせる。
「いくぞ、お前たち。今夜のヒーローになれ!」
 コーチの声に呼応して、大きな喊声とともにハドルが解かれた。選手たちは試合の最終局面に向けて口々に檄を飛ばしあい、手と手を合わせながらコートへと向かう。ハナ―――桜木花道は、ひとつ大きく深呼吸して、自分の目指すべきコート反対側のリングを見定めた。

 チームのために役割を果たす。そしてオレがヒーローになる。

 勝利の福音にも不吉な宣告にも思えるタイムアウト明けのブザーが、満員のアリーナの隅々まで高らかに鳴り渡った。
 ―――さあ、楽しいバスケの時間だ。

 

「よぉブラザー!」

 ロッカールームを出てきたところで聞き慣れた声がして振り向きざま、今しがたシャワーを浴びたばかりの濡れた髪を大きな掌にガシガシとかき混ぜられた。そのまま、花道のよりひと回り逞しい刺青だらけの腕が首根っこを捕まえたかと思うと、至近距離で満面の笑顔に出迎えられる。
「ハナ!すげぇ集中してたな。最高だったよ!」
「ニックじゃねーか!来てたのかよ、言ってくれりゃいいのに」
「サプライズだ。最初っから見てたぜ、すげぇ試合だった」
 そう言って男は、いかつい外見に反して可愛らしい仕草で片目をつぶって見せた。親しい相手を前にして、試合の興奮がまだ抜けずにギラついていた花道の表情は瞬時に和らぐ。向き合って、二人はがっちりとハグを交わした。腕を解いて拳と拳を付き合わせる。それから、ニックは花道の上腕の筋肉を確かめるように手のひらで触れ、バスケット選手らしく盛り上がった胸や腰の肉付きを上から下まで順に眺めた。

「ますます好調じゃないか。身体も仕上がってるし、足の方はすっかり心配ないみたいだな。前よりも高く跳べてるくらいだ」
「おかげでな。リハビリ中のトレーニングで身体のバランスがずいぶん良くなったって、トレーナーにも褒められた。…もっとも、今日はまた負けたちまったけどな」
「気にするな、次だ次!こういう試合は次につながるからいいんだ。相手に流れを渡さなかったのは間違いなくお前だよ。最後のチェイスダウンブロックはすごかったな、ありゃレブロン顔負けだった。まったく自慢の教え子だ!」

 そう言ってまた頭をぐいぐいと撫でられた。彼は昔から負けたときほどこうして褒めてくれる。彼のおかげでうなだれることなく前を向けた日が何度あっただろう。手放しで褒められて花道は少しはにかむように、だが嬉しそうに笑った。派手な赤毛に強気で泥臭いプレースタイル、おまけにビッグマウスとあって、一見するとシャイで真面目な日本人のイメージとは異なる印象を与える花道だったが(アメリカに来てから、同じ日本人でもお前はイチローなんかとは全然タイプが違うんだなと何度も言われた)、ハードワークにも懸命に取り組む姿や、つきあってみれば意外に内向的な一面もあるところは周囲から好意的に受け止められ、大学時代にまだ英語もおぼつかなかった花道にコーチとして出会ったニックには特に気に入られることになった。以来在学中から卒業して現在に至るまで、公私に渡って花道のことを気にかけてくれている。教え子を何人か送り出している今のチームにも顔がきいて、花道と言葉を交わしている間にも通りがかった何人かが手を上げて挨拶していった。

「今日アリッサは?」
「残念ながら仕事だ。さっきお前の活躍をメールしたら喜んでた。週末は出てこられるらしいから一緒に食事でもどうだ?オレがお邪魔じゃなきゃだけど」
「もちろん。おごってくれるならいーぜ?」
「一介のコーチにたかるのかよ!しょうがねぇプロ選手だなぁ」
 そう笑ってまた花道の肩に手を回すと、並んで外へと歩き出した。

 花道が2年前までいたローカルリーグのチームは、ニックとその娘アリッサの住む町がホームタウンだった。ニックは花道の大学時代のコーチで、娘のアリッサともそのころからの付き合いになる。大学卒業後アメリカでプロになる道を選んだものの、十分とは言えない給料に加え奨学金の返済もあった花道を、ニックはしばらく自宅に居候させてくれた。花道のふたつ年上で同じ大学を出て今は保険会社で働いているアリッサは、自身もバスケ経験者で、家ではよく一緒にNBAの中継を見たり、昔ニックが娘のために設置した庭のゴールでシュート練習をした。アリッサに英会話をレクチャーしてもらったりレポートを見てもらったことは数知れず、彼女の助けが無ければ花道はとても大学を卒業できなかっただろう。

 ボストンに移ってからもニック親子とは変わらず家族同然の付き合いが続いている。月に一度はお互いの家を行き来しているし、時々車を飛ばして親子で花道の試合を見に来てくれる。ケガでチームを長期離脱した時には、退院後の花道をしばらく自宅で世話してくれた。

「お前はまだ考えたくもないかもしれないが、いつか、いつかの話だぞ」  術後間もなくでさすがに少し気落ちしていた頃、けれど明るく振る舞おうとつとめていた花道に、そう前置きをしてからニックは言った。 「誰だって選手を辞める時が来る。どんなスターだって、ジョーダンだってジョンソンだってそうだ。いつかハナが選手じゃなくなったら、そのときはうちに来いよ。俺もアリッサもお前のことが好きなんだ」

 渡米の際に大事に包んで持ってきて以来、部屋に飾ってある父親の位牌を目にしていたので、彼らは花道の天涯孤独の身の上を知っている。花道もふたりのことが好きだ。彼らが惜しみなく与えてくれるものは、友情や教え子への慈愛というよりも、すでに家族への愛情と呼んで良かった。夢中で進むうちにいつの間にか30歳になって、このままNBAを目指して行けるところまで頑張ったその後の事を考えることが花道にもある。コートに立てなくなったら、自分はいったい何者として、誰とどうやって生きていくべきなんだろう。18の夏に単身アメリカにやってきたことを思えば、これから何だってできるような気もするし、バスケしかやったことのない自分が他にできることがあるのかという気持ちもあった。たとえばニックのところへ行って、コーチかトレーナーの働き口でも見つけて、アリッサと3人で暮らす。もしそうなったらきっと、この先ずっと自分は幸せなんだろうと思う。ニックの提案に対しては、まだ答えを返せていない。

 アリーナの外に出ると、陽の落ちた暗い空には季節外れの雪がちらちらと舞っていた。通用口を出たところに空港までの移動用のバスがつけてあって、寒空の下選手が出てくるのを待っていたファンの何人かがこちらに気付いて駆け寄ってくる。中には顔見知りの、大学時代からずっと応援してくれているファンもいる。キラキラした目で見つめてくる子供や興奮気味に試合の感想を教えてくれるファンの姿は、バスケを始めたころの楽しくて仕方なかった気持ちをいつも思い出させてくれる。花道が気前よくすべてのサインや握手に応えるのを、ニックは横でじっと見守っていた。それから、ファンの列が途切れたのを見計らって切り出した。

「実はな、今日はもう一つサプライズがある。お前にメールが来てるぞ」
 何だと思う?と茶目っ気たっぷりに目くばせしてくる。これは多分いい知らせだ。

「ニックはもう読んだんだろ?」
「まあな。いつもお前がなかなか読まないから。卒業して何年たってもオレは連絡役のままだ」
「もったいぶらねーで教えてくれよ。パソコンって壊しそうで苦手なんだよ。できれば触りたくねー」

 俺より若いくせに、まったくしょうがないやつだと冗談交じりの愚痴が降ってくる。こうして文句言いながら嬉しそうに世話を焼いてくれるところは、どこかの誰かに似ている気がして心がじんわりと温かくなった。若いころはただ前に進むことに夢中で、足を止めて海の向こうに置いてきたものを思う余裕なんか無かった。そうするうちにアメリカに来て10年以上が経って、オレもオッサンになったってことかなと胸の内で思う。自らに古い友人を重ねている花道の目の前に、ニックは人差し指を立て、たっぷり溜めをつくってから言った。

「メールは日本からだ。驚くなよ。3年ぶりにアジア予選の代表召集の打診だ。良かったな!今年は中国開催だってさ、もちろん行くよな?ついでに日本にも帰ってきたらいいじゃないか」

 良かったな、おめでとうハナ。そう言って笑うニックに花道は曖昧なほほえみを返した。
「…そうか。そうだな、ありがとうニック。」

 それはもちろんいい知らせに違いなかった。そろそろ来る頃かなと思っていたし、正直期待もしていた。ケガで出場できなかった2年前の大会を除き、必要とされれば花道は必ず代表の戦列に加わってきた。前々回も、その前も。しかしアジアにおいても、残念ながら日本のナショナルチームの戦績は振るわない。5年前の自国開催の世界選手権でなんとか1勝を挙げたものの、アメリカやヨーロッパの国々に伍するどころか、アジア圏のトップ争いにさえ食い込めない状態が続いていた。その結果には過去3度の代表を経験した選手として当然責任も感じている。個の力をもっと上げていかなければ世界とは戦えないことは明らかで、そのためにも自分がDリーグでもっとレベルアップして、NBAへの足掛かりを得たい。だが代表戦に出れば、NBAの登竜門であるサマーキャンプへの参加というチャンスをふいにすることになる。つまりアメリカでの自分のキャリアを犠牲にしなければ代表戦に臨めないというジレンマがあった。まして、花道は今年30歳だ。Dリーグでようやく仕事ができるようになったばかりの自分に残された時間はそんなに長くない。

 自分が必要とされることは嬉しいし、期待には全力で応えたい。それはバスケを始めたときからずっと変わらない。だが一方で花道には目標があった。この国の世界最高のリーグで必要とされる選手になるために、長い間努力してきた。それはかつて一番近くにいた男との約束であり、花道自身の誓いでもあった。

 メールへの返事をすぐに出すことを約束させてから、ニックはマイカーに乗り込んで帰って行った。帰りのバスの中、花道はチームメイトたちの会話をよそに珍しく黙り込んで、答えの出せない自問自答を繰り返した。

 

 翌朝、花道は珍しく寝坊した。
 ダラスからの帰りの飛行機は、日付が変わってからボストンに到着するという試合後の身体にはハードな行程だった。もともとあまり夜に強くない花道は、真夜中にアパートに戻るとベッドに倒れ込んだ。次に気づいたときには、すでに外は明るかった。太陽よりも早く起き出してランニングに出かけるのが日課の彼にしては珍しいことだ。深い眠りから引きずり上げられて、無意識に枕元の目覚まし時計を探ったが、布団の中から掘り当てたそれは沈黙したままだ。花道を起こしたのはアラームの音ではないようだった。周りを見回して、ベッドサイドに投げ出されたケータイから着信を告げるけたたましい電子音が鳴っていることにようやく気付いた。ぼんやりした頭のまま手探りで画面を開き耳に押し当てるや否や、電話口から大きな声が聞こえてきた。

「ハナ!?やっと起きた」
「…もしもし?アリッサか」
「テレビつけて!ラジオでもいい、とにかくニュースを見て!」
 おおらかで多少の事に動じないアリッサには珍しく、切羽詰まった声だった。とっさに彼女の父親の身に何かあったのではと心臓が冷たくなる。だが事態は花道が予想だにしないものだった。

「大きな地震があったって、日本で。津波が…」
 ケータイから聞こえた言葉の意味が入って来るよりも早く、テレビ画面に緊急ニュースが映し出された。

「…なんだ、これ」
 顔から血が引いていくのがわかる。テレビに向けたままのリモコンで、無意識に音量を上げた。

 どうなってるんだ。これは、この町はどこだ?湘北は?あいつらのいるところはどうなってる?

 花道はリビングに立ち尽くしたまま呆然とテレビの画面を見つめた。地震、津波という単語が耳に入っては通り過ぎていく。被害者の数、海沿いのコンビナート火災、どうやら深刻なことが起こっているらしい原子力発電所。キャスターは海の向こうの国を襲った災害の情報を矢継ぎ早に伝える。だが、その中に花道の知りたい情報はなかった。

 見知った顔たちが瞬時に脳裏に浮かぶ。電話口から花道を呼ぶ声がどこか遠く聞こえる。

 ゴリは、ルカワは、ハルコさんは、あいつらは…
 みんなは…洋平は、無事なんか?

 オレは。オレはなんでこんなとこに居るんだ?

 花道はしばらく呆然としていたが、やがて弾かれたようにケータイを握りなおして言った。

「アリッサ、教えてほしいことがある」

 * 

 ケータイの振動を脇腹のあたりに感じて、洋平は足を止めた。今朝(その時はまだ、今日という日はなんの変哲もないいつも通りの日常だった)間に合わせで着てきた、スーツには不似合いなカーキのジャケットのポケットをまさぐった。震えながら暗闇でぼんやりと光るケータイをポケットから引っ張り出した拍子に、さっきコンビニでもらって無造作に突っ込んだレシートが一緒に飛び出して、地面に落ちた。ほんの一瞬迷いつつ腰をかがめてそれを拾いあげながら、手早く片手で折り畳み式の画面を開いて耳に押し当てた。地震発生から6時間、きっとようやく回線が復活したんだろう。幹線道路の歩道で足を止めた洋平の脇を、同じように帰宅手段を失って徒歩で家路についた人々が俯いたまま早足で追い越していく。こちらの安否を確かめる誰かからの着信が、はるか神奈川まで先の長い道を往く洋平の気持ちを少しだけ和らげた。家で不安な夜を過ごす家族か、それとも関東の洋平たちを案じる母親からかもしれない。

「はい、もしもし」

 予想に反して、しばらくの間ケータイは沈黙を守ったままだった。やはり回線が繋がっていないのかと訝しんだが、ついさっきまで嫌というほど聞いたアナウンスが流れてこないところを見るとどうやらそうではないらしい。よくよく聞くと、風が吹くような、ざぁっという微かな雑音が耳に届いた。

「もしもし?」
 もう一度問いかけたが返事はない。だがかすかに、息を飲むような音が聞こえた気がした。電話の向こうに確かに誰かがいる気配がする。間違い電話だろうか。歩道際のガードレールに浅く腰掛けて、相手が言葉を発するのをじっと待つ。もう一度、何かをためらうように、電話口で息を深く吸いこみ、ゆっくりと吐くような音がした。その息遣いが聞こえた瞬間、頭の中でカチリと何かのスイッチが入ったような錯覚をおぼえた。こいつは間違いなく俺の知ってるやつだ。

―――もしかして。花道か?」
慎重に、丁寧に言葉を口に乗せて、返事を待つ。

『…よーへー。』
 電波状況のせいか、ややあって返ってきたその声は小さくかすれて聞こえた。だが確かにそれは、洋平がよく知っている声だった。

「うそ?え、ほんとに花道?」
 自分でも半信半疑だったのと、呼ぶ声が花道らしからぬか細さだったので思わず食い気味に問い返す。番号非表示だったけどなんで。これ国際電話かけてきたの。国内はダメなのにこっちなら繋がるってどういうこと。無限に疑問符が湧いてきて、でもそれを全部飲み込んで、ケータイに頬をくっつけて海の向こうから届く音に耳を澄ます。充電残量が気になる。くそ、やっぱりさっき充電器買っときゃよかった。

『よーへー。はぁ、生きてた…』

 朝起きたらそっちがえらいことになってて、こっちのニュースじゃはじめ細かい地名出てなくて、もしかしてヤベーんじゃないかってもうほんとに…いや、大変なのはおまえらなんだけど。とにかく洋平が無事で良かった。  大きく安堵の溜息をついてから、緊張が解けたように矢継ぎ早に言葉をつなぐ花道に洋平は苦笑した。

「生きてるよ。生きてる。確かにヤバいことになってるけど、このへんはとりあえず大丈夫」

 そうか、そうか良かったと何度も相槌が返って来て、電話口でしきりに頷く花道の様子が目に浮かんだ。大きな背中を丸めて小さな電話にかじりつく姿も。大丈夫。そう、大丈夫だ。生きて、アメリカに居る起き抜けの花道と通話している。息を吸って静かに吐いた。こわばっていた身体に血が巡って温まってくる。

『他のやつらは?大丈夫か』
「大丈夫らしい、とりあえず。あいつらも、バスケ部の人らも。電車も止まってるし停電とかはあるけど。パソコン開けるならあとでmixi見てみな、みんなそっちで連絡してるから」
『洋平の家族はだいじょぶなんか』
「うん、嫁さんも子供もなんもないよ」
 安心したのか、花道の声がいつものトーンに戻ってきた。懐かしい、久しぶりに聞く声。ずいぶん長い間喋ってないのに、毎日会ってる相手みたいにしっくりくる。

「てかさ、初めてじゃねぇ?」
『ぬ』
「お前からこうやって電話かけてくんのさ」
『前かけたろ、ケガのあと』
「アレは家電じゃん?いつでもかけられるようにってケータイ番号交換したのに、お前相変わらず音沙汰なし」
『ふぬ…ケータイのボタンちっちゃすぎて使いにくいんだよ』
「はは、そんなこったろうと思ったけど。今日はよくかけられたな、国際電話」
『必死だったのと、分からんかったから教えてもらった』

 今、海の向こうの花道のそばにいる人を思った。顔は知らない、でも花道を大切にしてくれる人を。

 電話に音を拾われないように息を吐いて空を見上げる。街明かりがいつもより暗いせいか、黒々とした夜空にはいつのまにか星がいくつも光っている。

『今そっち金曜の夜か?洋平は何してたんだ今日。危ないことなかったか』
「ん、まぁ普通にサラリーマンしてるよ、今日に限らず毎日。地震のときはビルの上の方にいたから結構揺れた。あれはさすがに初めてだったな」
『やっぱ揺れたんか、そっちも』
「中学のさ、修学旅行の時に神戸で地震の車乗ったの覚えてる?すげー揺れるやつ」
『あー、あったな。洋平とチュウと一緒に乗った』
「あれより揺れた気するわ」
『マジか』

 会議室の掛け時計が落ちて、蛍光灯が不規則に明滅する部屋にガラスが派手に飛び散ったこと、非常ランプの点いた暗い階段を何分もかけて降りたこと。隣の席にいた男が家族の安否がなかなか分からずに取り乱していたこと。その後も身体に感じる揺れが何度もあって、もはや本当に揺れてるのかどうかよくわからなくなっていること。そういった今起きている全部を言葉にして、電波に乗せて説明するのは何か違う気がして、洋平は口をつぐむ。

「元気なの、お前の方は?」
『ああ』
「試合どう?」
『昨日負けた』
「そっか」
『でもリバウンドと、あとブロックはまあまだった』
「まだ見てねーわ。帰ったらチェックしなきゃだな」
『自分でシュートも行った』
「おお、天才の面目躍如。最近結構出してもらってるよな?」
『昨日はベンチスタートで15分ちょいだ』
「おぉ、すげーじゃん!もうすぐスタメン取れるかも」
『おうよ』

 ちょっと弾んだ声で、昔からの口癖が返ってくる。30歳のこいつは今、電話口でどんな顔をしてるんだろう。頭に浮かぶのはちょっと唇を尖らせた、得意げで嬉しそうな高校生の花道だった。ふたりだけの体育館、光がいっぱいに差し込む中で、まだ試合では成功してないダンクを披露した時の。それは洋平にとって、多分死ぬまで忘れられない光景だった。15年経っても、朝のひんやりした空気の匂いや、体育館の中をキラキラ光りながら舞うホコリの粒までありありと思い出せた。

―――また見てぇなあ、お前のダンク」

 思わず腹の底から出た言葉は、自分でもあまりに気持ちがむき出しになったように聞こえて、言ってしまってから洋平は激しく後悔した。不用意だった。だが一度電波に乗った音は取り戻せない。花道が軽く流してくれたらいいと思ったが、案の定電話のスピーカーからは数秒沈黙が流れた。洋平は何も言えずに花道の言葉を待った。

『洋平』

 訥々と、だがまっすぐな声が届いた。

『なあ洋平、おまえ―――

 その時だしぬけに、ピ、ピと耳元で電子音が鳴りはじめた。慌ててケータイを確認すると、画面には真っ赤なバッテリーの絵とともに「充電してください」の文字が表示されている。

「ごめん花道、もう充電切れそう」

 ピ、ピという音が徐々に大きくなっていく。こちらの声が届いていないのか、洋平の声に反応を示さないまま花道は続ける。

―――おまえ、見たいか、オレの』

 そこでブツリと声は途切れ、同時に電子音も止んだ。スピーカーからまだ声が聞こえそうな気がしてしばらく動けなかったが、洋平はやがてケータイを耳から離して、暗くなった画面をしげしげと眺めた。

 夢じゃなかったよな?

 通話履歴を確かめようにも、最後の力を使い果たしたケータイの画面は、つるつるした黒いガラス面に街灯の明かりを映し込むだけだ。言わなくていいことを言ってしまった。花道が続けた言葉を聞くべきだったのか、聞いたらその先で自分が何を言ったのか、洋平には分からない。

 人々の群れが途切れて、洋平はしばらくの間ひとりでガードレールにもたれていた。遠く遠く、海の向こうからの電波を運んできた空を見上げると、端の方にくっきりとした三日月がいるのを見つけた。今花道の頭上にいるはずの朝日が、月の横顔を煌々と照らしている。あの月も太陽をおいかけて、数時間後には花道の上にのぼるだろう。

 洋平は沈黙したケータイを元のポケットにつっこんで、家に向かってまた歩き出す。道の行く先には黄色い三日月が浮かんでいて、まるで自分が月を追いかけて歩いているみたいに錯覚した。

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