Seize The Star

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海にうつす

 高速バスの窓から、海岸線をふちどるように街灯の列が続いていくのが見えた。
 最低限の手荷物を通勤かばんに押し込んでアパートを出たときはどうなることかと思ったけれど、いざ乗り込んでしまえばシートに身体を預けるだけの時間は手持ち無沙汰なもので、窓の外を眺めるくらいしかやることがない。車掌が行き先と途中休憩の時刻を告げるとすぐに車内灯が落とされて、2列ずつ並んだ座席の半分ほどを埋めた乗客たちはめいめいにシートを倒して寝支度を始めた。まったく眠気を感じないものの、なんとなくそうしないと悪い気がしてひじ掛けについたリクライニングのボタンを押すと、彼女はやっとひとつ小さく息を吐いた。

 仕事は今日に限って座る暇がないくらい忙しかった。その合間に夜行バスのチケットをとり、明日休むための調整をし、一度帰って家のことを片付けてから、広島行きの夜行バスに飛び乗った。くたくたのはずなのに、重たい身体とは裏腹に頭は妙に冴えている。アンナは作り置きの夕飯をちゃんと食べたろうか。
 ひと晩娘を泊めてもらえるよう、同じ市営アパートに住む知り合いのところへ慌ただしく頼みに行ったのは今日の夕方だ。一緒に広島へ連れて行くつもりだったが、本人が行きたがらないのでやむを得ずそうした。この町に越してきて以来の付き合いのその友人は、夜勤に出かける直前に舞い込んだ急な頼みにも、お互い様だからと快く応じてくれた。彼女たち母子にも何かお土産を買って帰らないと。

 そこまで考えたとき、バスがちょうどトンネルに入った。真っ黒い鏡のような車窓にくっきり浮かび上がった青白い顔に、思わずたじろいだ。一瞬、自分のものと思えなかった。目の下には濃いクマが影を落としている。化粧っけのない顔からは表情が抜け落ちてまるで能面のようだ。家でいつも下ろしている髪が昼間ひっつめたままになっていることに、ようやく気が付いた。

――これが今の私。

 考えてみれば、日頃自分の顔をまじまじと眺めることもなかった。ゆうべ隠れるように再生したビデオの映像にも自分の姿は映っていなかったけれど、子供たちにかける声はみずみずしく弾んで、目の前のガラス窓に映ったのと同じ人間のものとはとても思えなかった。
 自分がかつてあんな風に笑っていたことも、天国みたいなあの庭先が本当に存在していたことも、現実とは思えない。色も音も、古びたビデオの方がよほど鮮やかに輝いていて、むしろ今の方がよほど真実味に欠けているような気がする。だから釣り竿を握ったソータが不意にアパートの玄関を開けて帰って来たとしても、きっと全然不自然ではないのだ。

 沖縄の家の大きな仏壇に飾るためにつくった写真は、形だけの納骨の後すぐに片付けた。どうしても、夫の遺影と一緒に飾っておく気にはなれなかった。悲しみの重さを比べることなどできないけれど、何かが決定的に失われたとしたら、それはソータが帰らぬ人になった時だったように思う。
 だからぜんぶを段ボール箱にしまい込んで、遠くの町に引っ越すことにした。私はソータの思い出を日常の中から締め出した。でないと自分もあの子も、このままどこにも行けないと思ったから。あの子は、リョータはきっとそれを許しはしないだろう。バスケだって、続けさせるつもりはなかったのだ、本当は。新しいバッシュを買ってほしいと言われたとき私は迷った。バスケを拠り所にすることで、あの子がいつまでもソータを忘れられないのを恐れた。寝入ったはずのリョータが声を殺して泣くのをふすまの隙間から聞いたことも、アンナがちゃんと息をしていることを確かめた夜も数え切れない。8年。それだけの時間、自分の手元に残ったものを握りしめて、ただやりすごしてきた。

 今になって、試合を見に行って一体何になるだろう。兄の影がつきまとうはずのバスケを取り上げられなかったのは、あの子だけのためだったと本当に言えるだろうか。鏡の中の自分を見つめて問いかける。――母親のくせに。傷つき苦しむ小さなあの子を助け起こしてやることもできないまま、ここまで来てしまった。ぎゅっと手首を握りしめる。私はまた、ソータの姿を重ねてしまうかもしれない。あの子にとってそのことが持つ意味を分かっていながら。

 それでも、リョータは手紙を置いて行った。あの子があんな風に自分の気持ちを言葉にしたのはたぶん、初めてではないだろうか。前より熱心に部活に行くようになったのは知っている。そのころから何か、言葉の端やふとした行動に伺えるあの子の内側が、ほんの少しだけ変わったのではないかという気がする。きっとそれを確かめたくて、私は広島に行く。

 重く湿った真夏の空気を押し分けて、バスは静かに走っていく。今頃子どもたちはそれぞれの場所で寝息を立てはじめた頃だろうか。眠れる気はしなかった。けれど、少しでも休んでおかなければと固い毛布を胸元まで引き上げる。

 食べて、眠って、私たちはまだどうしたって、明日を迎え続けなくてはならないのだから。

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