Seize The Star

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セカイがxxxまでは

 遠くで、海風が鳴っている。

 この海岸はいつ来ても決まって風が強い。たった今付け替えたばかりの硬いネットは少々の風に吹かれても微動だにせず、7号球の重みに揺らされる時をじっと待っている。
 花道は少し離れたところに立って頭上にボールを掲げる。これまで何千回、何万回と見上げてきたそこへ狙いを定め、ほんの一瞬息を詰めて身体の中心へと意識を集中する。昔ほどではないものの今も盛り上がった胸筋が、しゅっと音を立てて空気を吐き出す。同時に、スリーポイントラインの位置から放たれたボールはゆったりとした弧を描いて、わずかな摩擦音を立てネットの中心を射抜いた。
 四月の終わりだというのに汗が額を伝って目に染みる。もう数時間のあいだ、花道はここで人を待っている。昔のあいつは決して待ち合わせに遅れることがなかったが、今はもう事情が違うのだ。それに待つのは嫌いではない。楽しいと言ってもいいくらいだ。やることもなく、ただ時間の過ぎるのを待つよりは余程いい。眇めた視線の先で海面をきらめかせている陽の光がむき出しの肌を焼いて痛かった。夏は年々長く、暑くなり続けている。こうして昼間に太陽の下にいられる時期もきっとあと僅かだ。
 ランニングシャツの裾で汗をぬぐってもう一度、ボール手のひらで撫でるようにして懐に収め、姿勢を整える。狙うゴールはキャンピングカーのハッチに備え付けられた特別仕様で、どこへ行くのも花道と一緒だ。今度はスリーよりもいくらか遠い位置から。膝の屈伸を使って、のびやかなフォームが無駄なく運動量を伝える。リリースから数秒後、綺麗にスウィッシュしたシュートがネットを跳ね上げた。

「昔より上手くなったんじゃねーの」
 ボールがコンクリートの路面で跳ねる音とともに、背後から記憶の中よりいくぶん掠れた、けれど懐かしい声がした。
「六十のジジイのくせに」
 相手がどんな顔をしているのか、花道には振り向く前から手に取るように分かる。
「まだ五十九だ。おせーぞ洋平」
 そこにはグレーの仕事着姿の旧友が、いつも通り柔らかな笑みを浮かべて立っていた。口では不平を垂れながらも花道は内心ほっとした。今回も無事に落ち合えた。撫でつけた髪にずいぶん白いものが増えたことを除けば、悪友は前会った時と変わらず元気そうに見える。向こうの方には見慣れたバイクも停めてある。
「少し痩せたんじゃねーか。ちゃんと食えてるか」
 上から見下ろした肩の厚みがいくぶん減った気がすると思っていたら、相手からも同じ言葉が返ってきて苦笑した。

 海に向かって開け放ったバンの荷台に並んで腰かけて、洋平が持ってきたぬるい炭酸水と一緒に今日のために取っておいた缶詰の蓋を開ける。痩せてないはずもない。日に日にバスケどころではなくなっていく世界で、みるみる仕事は無くなった。力仕事で気まぐれに稼ぐ日銭は殆どキャンピングカーのガソリン代に消え、まともな食い物は行く先々で見知らぬ相手から、端金を賭けた1on1や他愛無い遊びのついでに譲ってもらうばかりだ。配給を受けられるとはいっても、洋平だって似たようなものだろう。ちびちびと炭酸をすすりながら、歳のせいか覇気のない声で語られる洋平の近況に耳を傾ける。
 こうして待ち合わせるのはこれで何度目だろうか。少しの間のつもりで始めた逃避行は存外長く続き、もう数えるのもやめてしまった。いつからか洋平の持ってくる知らせは聞くに堪えないものが多くなり、今日もまたせっかく会えても旧友の口数は少なかった。インターハイが中止になったのはいつだったか。ほどなく花道がかつて籍を置いたプロリーグも無期限の休止となり、あるとき思い立って、放っておくと際限なく目減りしていく預金を叩いて買ったのがこの車だ。寝泊りができて頑丈で、洋平が取り付けてくれたソーラーパネルで発電できる。おまけにバスケットゴール付きだ。車を手に入れる代わりに家もスマホも手放した。そうしてやっと花道は、自分を監視し、指図するものから逃げ出す術を手に入れた。
 親しい者たちと、離れ離れになるのと引き換えに。

「今度新しいバッテリー持ってきてくれよ。手に入ったらでいいからよ」
「花道」
 ふいに呼ばれて頤を上げると、微かに笑みを浮かべた洋平とまっすぐ目が合った。花道は言いかけた言葉を飲み込んだ。
「悪いけど、次いつここに来られるかわかんないんだ」
 言葉の意味を捉えるのに数秒かかった。いや、頭が理解を拒んだ。それは花道がずっと恐れていた台詞だったから。
 喉の奥から「いくのか」と、自分のものじゃないみたいな声がした。
「うん。技師どころか機械工も足りないんだと。技能実習生はとっくに帰っちまったし、うちの若ぇ奴は子どもがちっせぇからな。それにこんなロートルでも現場じゃ若い方らしいよ」
「行って、何すんだよ」
 今度は怒ったような、子どもっぽい言い方になった。洋平は眉を下げて困り顔を浮かべる。
「さぁ、機密ってやつじゃねぇの。どこ行くのかも何すんのかも教えてもらえない。あんま触ったことねーけど、ドローンや航空機もやらされるんだろうな。……そんな顔すんなよ。修理とか組み立てだから、きっとそんなに危ないとこじゃない」
 苛立ちがいよいよ抑えきれない。洋平は何だってできる。けどだからって、やりたくもねーことをやらされるなんて我慢ならないと思った。身体が見えない縄でがんじがらめにされたようで、年甲斐もなく久しく忘れていた感覚を思い出した。
「……行けって言われたら行くのかよ」
 そんで、やれって言われたら何でもやるのかよ。

 洋平に腹を立てても仕方ないことはよくわかっていた。自分がそういうもの全部に背を向けていられるのは、逃げて失うものが他に無いからだった。それが悔しい。
「いーんだよ、これで。花道がそのままでいられるなら、俺はどこへだって行くしなんだってするさ。そんで絶対に帰ってくる」
「……は」
「お前はバスケ続けろよ。俺や、続けられなかった奴らのためにも。それがお前の抵抗だろ」
「うるせぇ、抵抗なんか知らん」
 怒りで鼻の奥がツンとした。ふざけんな。ふざけてんじゃねーぞ。お前がいっちまったら、こんな世界で誰がオレのバスケを覚えてるんだよ。
 スマホアプリに届くらしい召集の通知のこと。仕事や生活全部を管理される町での暮らし。何もかもがイカれてると思った。一体いつから、どこからこれほどイカれちまったんだろう、オレたちは。
「帰ってこなかったら一生許さねー。分かったかバカヤロウ」
 洋平は分かってるよと言ってまた笑った。笑うしかないのだ、きっと。
 目尻に刻まれた皺の深さが一層花道を泣きたいような気分にさせて、たまらず空を仰いだ。

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