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海にとかす

 海ってさ。時々、生臭いみたいなにおいがするね。

 そう言うと、先に立って浅瀬を歩いていた彼女はこちらを振り向かないまま「分かる」と相槌を打った。夜の海水浴場には、わたしたちの他に誰もいない。海沿いの砂っぽい道を照らす街灯の明かりがここまで届いていた。けれど月も星も出ていない曇り空の下では、ほとんど真っ黒の水に足を取られないように歩くには注意が必要だった。彼女はひざ下くらいまで水が来たところで立ち止まると、片手に持った三角コーンのアイスを口に運んでがぶりとかみついた。

 思ったほど涼しくなかったねぇ。ひとりごとみたいに呟いた言葉が聞こえなかったのか、それとも口がふさがっているからか、今度は答えが返ってこなかった。真夏の太陽を一日じゅう浴びた水面の下にある脚の間を、ちょうど体温とおなじくらいの水がぬるりとすり抜けていく。古い団地の西向きの、おまけにうちとおなじでエアコンなんかついてない寝室があんまり蒸し暑かったから、コンビニにアイスを買いに出かけようと言いだしたのが彼女で、その帰り道で海に浸かって涼んで行こうと言ったのはわたしだった。彼女のあとを追って進むわたしの右手にも、食べかけの棒アイスがある。スイカをかたどった細長い三角形のアイスは意外に大きくて、持て余しているうちに端の方が溶けはじめ、早く食べなきゃと思うとかえって食欲がどこかへ行ってしまった。砂の上に脱ぎ捨ててきたゴム草履が波にさらわれない場所にあるのを確認してから、もう一歩沖へ向かって足を動かしてみる。ちゃぷん、と膝の下で水面がはねる気配がして、生温かい水の中から海の匂いが香った。生き物の匂い。

 生まれたところの海がどんなだったか、もうあまり覚えてない。何か言われたわけじゃないけれど、なんとなく水から足が遠のいた。ここに来る前に一度目の引っ越しをした先は沖縄の内陸で、少しほっとしたのを覚えている。結局そこもすぐ引っ越すことになって、そのころにはもうおかあさんは泣かなくなったけど、代わりに笑うことも一緒にやめてしまった。わたしがいないと出発時間の確認だってできないあのふたりは、広島でなにか話せるだろうか。

 ふいに冷たい汁が手首を伝って流れ落ちたので、慌てて舐めようと口を近づけた。その瞬間、指先に感じる重みがふっと軽くなる。

「あ」

 足元で、ぼちゃんと小さな水音がした。遠くの街明かりをうつして黒く光る水面の奥に目を凝らしてみても、沈んでいく冷たいかけらは見えるはずもなかった。
ソーちゃん、そういえばコレ好きだったっけ。唐突にそう思い出した。甘いケーキのクリームよりも、みずみずしい果物のほうが好きだった。大きなスイカを並んで食べた縁側、夏休みにアイスをくわえながら隣でテレビを見ていた横顔。断片的な風景の記憶が頭の奥底に浮かんでは消えていく。帰ってこなくなった上の兄が遠い島で暮らしているのだと聞かされて、小さなわたしはそれを信じていた。今なら優しい大人たちの作り話だったと分かる(そのときだって、どこかで分かってた)。けれどその〝設定〟はなぜかソーちゃんにすごく似合ってる気がする。

「どしたの」
「ん、なんもない。てゆうか、今日ごめんね。突然泊まらしてもらって」
「なんで謝るの? あたしは逆に嬉しいし」

 お互い様ってママも言ってたでしょ。いつものように笑って彼女は、指の先ほど残った小さなコーンのはしっこを口の中に放り込んだ。さくさくというかすかな音に耳を澄ませながら、わたしは泡立つ波の下でスイカ色のかけらが溶けていくさまを想像する。甘い液体が海に流れ出したあとにチョコのつぶつぶが残ったら、きっとそれを魚たちがつつくのを楽しそうに覗き込むだろう。記憶の中にしかいない兄は、ずいぶん前から輪郭がぼんやりとしているくせに、きらりと笑ってわたしをひきつける。

 ――ソーちゃん、お誕生日おめでとう。

 口の中で小さく呟くとまた、ぬるい海風が吹き抜けていった。

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