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円環の棺<Side-S>

「目ぇ覚めたぁ?おはよ、志摩ちゃ~ん」

 とっくに数えるのをやめた。また、何度目とも知れない目覚めのシーンだ。 決まって軽薄な笑みを張り付かせた久住に覗き込まれるところから始まる。

 夜。内湾は波もなく穏やかで、船は静寂につつまれている。 船室の床に情けなく這いつくばった格好のまま動けない志摩の目には、何故か見えるはずのない月が見える。 低い空に浮かぶまるい月。昨日の密行中に今日は満月なんだと伊吹が言っていたからこれはたぶん十六夜月だろう、 朱色といっていいその月は、血のぬめり気さえ感じさせる。

 妙な匂いのする熱い蒸気は既に船内から晴れているが、頭がぐらぐらして胃は今にもひっくり返りそうだった。 時間や空間の感覚はぼんやりしているのに、視野と聴覚がいやに鮮明に感じる。 なんとか首をもたげて見上げた数メートル先には、見慣れた長身が力なく横たわっている。伊吹。 もうずいぶん長い時間、きゅるきゅるだとか何とか言ってやかましくはしゃぐこいつを見ていない気がする。

 志摩は歩み寄る久住を睨みつけながら、同時に赤い月を見ている。 月だけではない、暗い鏡のような海に浮かぶ孤独な船の様子もありありと見ることができた。 志摩の視点は既に身体から離れて浮遊している。ここには誰も助けになどこない、永遠に。

 長い長い時間をかけて、いくつもの悪夢が延々と連なって現れては消えていった。 そのどれもで、志摩は全てを投げ出して、この世から居なくなることを選んだ。 あとに残された伊吹がきっと久住を殺すだろうという確信があるものの、志摩がそのシーンを見ることはない。 月も船外の様子も、何なら行方不明者ふたりに関する小さな新聞記事や、 桔梗と九重がうどんを啜りながら愚痴まじりの雑談を交わす様子だってはっきりと見えるのに、 何故か伊吹が久住を撃つその瞬間だけ、志摩は見る事ができない。起こったことと起こりうること、 時系列が圧縮されて渦巻いて、気づいたらまた元の船室で床に転がっている。

 はじめのうちは、この状況からどうかして脱しようと必死でもがいた。 気絶したままのフリをしてひそかに伊吹を起こそうと試みたり、久住の誘いに乗ったフリをしてみたり。 真っ先に久住の頭めがけて発砲したこともある。自分の手を汚してでも、伊吹をここから逃す方法を探した。 しかし最後にはいつも、どんなにあがこうと同じ結末に収束した。志摩は諦めの中で、何度も何度も銃声を聞いた。

 どうやってもここから抜け出せないことを理解して、自分が夢の中に囚われてしまったことを志摩は悟った。

 そう、これは紛れもなく志摩自身の見せる悪夢だ。 もしも相棒の命が危険に晒されたら。もしも刑事のルールを逸脱することになったら。 ―― もしも弱い自分が全てを…刑事の自分自身も伊吹の正しさも、全て手放して楽になることを選んだら。 この悪夢の正体は、受け入れがたい『もしも』に対する志摩自身の恐れだ。 こんなに肌に馴染みのある苦しみが、現実であるはずがない。

 しかしこれが悪夢だとして、自分が今本当に眠っているのか、死の間際にタチの悪い走馬灯を見ているのか、 それが志摩にはどうしてもわからない。あるいは、既に死んでいるのか。 ずいぶん前に後頭部を撃たれたような気もするが、すでに判然としない。 だから自分が死んだ可能性も考慮に入れるべきだと志摩は考える。 まだ生きてようがもう死んでようが、永遠に繰り返す悪夢の中に囚われて志摩は逃げ出すことさえ諦め、 自分の行いとその結果に責められ続けるしかない。 死後の世界がこんな風だとしたら確かにこれは無間地獄だろうが、幸か不幸か俺は、 まだ生きてるときに同じ責め苦を味わった事がある。そう考えると自嘲気味に口角が上がった。

 大丈夫だ、悪夢なら見慣れている。何も感じないように心を手放す方法だってずっと昔に心得た。 終わるときまで、深海で口を閉ざす貝のように、何も見ず何も聞かずにいればいい。 次第に口の中が砂を噛むように味気なくざらついて、ただ時間だけがループする。

 久住が何か言っている。伊吹の顎をぞんざいに上向かせて、その続きも志摩はもう知っている。

 ここが自分の悪夢だとして、伊吹は――この伊吹は本物だろうか。 昼間東京湾マリーナに駆けつけたところまでは、確かに現実だったような気がする。 クルーザーの上で見つけた伊吹は昏睡状態だったはずだ、おそらく例のクスリを吸わされて。 力なく壁にもたれかかって息をしているかすら怪しい様子に心臓が止まりそうになりながら、 ピクリとも動かない身体を抱え起こして脂汗をかきながら脈を探したが、 指先に微かに感じた脈動が確かなものだったかどうか確信が持てなかった。 伊吹の生死すらどちらでもいいような錯覚に陥りかけて、ようやく焦りを感じる。

 伊吹が一緒にこの悪夢に囚われていると考えるのは、夢の中とはいえ虫が良すぎるだろうなと志摩は思う。 カバンのポケットに仕込まれた盗聴器を見つけて嫌な汗をかきながらかけた電話の声は、 怒っているはずなのに落胆と哀しみで芯から冷え切っていた。 「相棒なんて一時的なもの」という刑事にとって至極当たり前の事実は、それまで伊吹の口から決して発されたことはなかった。 切り捨てるような行動をとったのは自分なのに、突き離されてみれば喉の奥が詰まって息ができないのが我ながら情けない。 伊吹を極力傷つけずに、いや、決定的に伊吹から見限られることなしに、伊吹を遠ざけようとしていた自分に腹が立つ。 俺はこの期に及んで、伊吹を失わずにいたいと思っていたのだ。

 たとえ伊吹に切られても、彼を正しいままいさせることができればそれでいいと志摩は思った。 だからそうした。しかし志摩を失った伊吹は、正しさを保てなかった。そうして何度も何度も、志摩は伊吹を失った。

 久住の掌が伊吹の口元をぴったりと塞ぐ。もうさんざん見飽きたはずの光景なのに、 胃の中から熱い塊がせりあがって視界が滲んでくる。全てを諦めれば、恐れも後悔も手放せるはずなのに。 志摩は苦しそうに小さく呻く伊吹から目を逸らすことができない。 無意識に脇の拳銃へ手が伸びて、指先に硬い銃身が触れた。身体の感覚は鈍いのに、吐き気だけが生々しく襲ってくる。 気分の悪さが昂じて、無性に腹が立つ。

 思えばこの男は本当に手に負えない野生のバカだ。 九重相手とはいえ腹を割って思いの丈を述べるという到底「らしくない」ことまでやったのに、 話を最後まで聞かないわ単独で先走るわ、挙句久住に捕まってこの有様、目も当てられない。 大人しく憧れの捜一にでも異動して、俺以外の誰かと仲良くバディを組んで、定年まで刑事やってりゃ良かったのに。 間に合わない後悔も間に合った喜びも、他の誰かと分け合って刑事の人生をまっとうできた筈なんだ。 何なら上手くやれるよう根回しくらいはしてやるつもりだったのに。くそ、もし生きてたら絶対一発ぶん殴ってやる。

 おかげで俺が必死で守ろうとしてきたものまで台無しだ。 出会った頃からずっとそうだ。俺がしっかり横で手綱を握ってないと、お前は。

 ―― 『機捜っていいな』

 そう言って、歯を見せて笑う横顔。何のてらいもなく、無邪気にそう言える伊吹の正しさは、 その時から志摩にとって紛れもなく光となった。

 正しさがいつも善きものであるとは限らない。規範を知らなければ、時として暴走する。 伊吹を刑事としての正しさに導いたのは他でもない自分だと志摩は思っている。自負していると言ってもいい。 ガマさんによって『正しい道』へ戻され、刑事の職を選びながらも未熟なまま持て余されていた伊吹の正義に、 守るべき規範を示し、活かす場を与えた。伊吹と組んでからの半年で、たしかに自分が成し遂げたことだ。 それは単に職務として、上司の期待に応えるためだけではなかった。

 伊吹にとって、俺が正しさを諦める事は何を意味するだろうか。 正しい刑事でいる事に疲れたと、ループする世界で俺は何度も宣言した。 隠してきた本心を口にして、自分を納得させるように。 清廉潔白であり続けることに疲れきって、もう自分が正しくあり続ける意味などどこにも無いと心から思った。 どんなに自分を律して正義を積み重ねたって、組織犯罪は手口を変えながら生き残るし、 久住のような手に負えない奴も次々に生まれる。 権力に守られて無傷のままの巨悪もあれば、解りやすく叩きやすい生贄を求める人々が 正体のない化物となって牙を剥くのも知っている。 俺ひとりがもがいたところで何が変わるわけでもない。 この繰り返す悪夢の中に囚われて――いや、 志摩は刑事をしながらずっとそう思ってきた。 この不毛な営みには心底疲れた。だから正義を諦めるのと引換えに、せめて久住へ一矢報いようとひとりで動いた。 意識して伊吹と距離をとった。

 珍しく怒りを露わにした伊吹に迫られても俺は眉ひとつ動かさずにいられたのだ。 自分に切られた伊吹が気を悪くするのは当たり前だと思っていたから。 だが、自分は伊吹をみくびっていたのかもしれない。俺が正しさを捨てようとしていたことに、伊吹は怒ったのではなかったか。

 だとしたら、俺が死んだせいで伊吹は久住を撃つのか? いや、死んだ人間でさえ、目の前でその願いを無視するような事は、きっと伊吹にはできない。

 この時ようやく、志摩は思い至った。伊吹の正しさが、他ならぬ志摩自身の正しさを拠り所にしているのかもしれないことに。

 ――俺が正義を手放したから、伊吹は殺すのだ。

 俺は、守りたいと願った伊吹の正しさを自分で汚すところだったのか。
 現実と地続きの悪夢の中で、茫然としながら喉から乾いた笑いが漏れた。 笑うしかないな、馬鹿みたいだ。陳腐な妄想をさんざん繰り返して、たどり着いたのがこんな答えだなんて。

 ゴツンという固い音とともに、右手から銃が転げ落ちた。 志摩は奥歯を噛み締めて上半身を無理やり起こし、久住を一瞥することなく伊吹の方へ這い寄っていく。 身体がグニャグニャした重たいゴムの塊のようで言うことを聞かないし、頭は今にも割れそうに痛い。 それでも必死で腕に力を込めて前進する。『いつも』と違う志摩の動きを認めて久住が怪訝そうな笑みを向けてくる。

「なんや志摩ちゃん、まだラリっとるんかいな?」

 うるさい。お前に俺の名前を教えた覚えはない。

 久住に構わず、四つん這いでじりじりと伊吹の方へ近づいていく。 自由に動かない四肢がもどかしい。白いシューズの爪先が鼻先に当たる。起きろ伊吹。お前はそれでいいのか。

「起きひんて。ここは志摩ちゃんのサイアクな夢の中。 志摩ちゃんが間違った時点でこうなることは決まってしもたんや。 どれだけ頑張ったって、全部無駄やってもう分かっとるやろ?」

 うるさい、邪魔するな。こんな夢をお前に見せられるまでもなく、俺にはこいつが必要で、こいつには俺が必要だ。 俺だけじゃない、同じようにこいつに救われる人がきっとたくさんいる。 この世がどんなに酷い地獄でも、それを諦めるわけにはいかない。

「…いぅき…っ」

 顔の筋肉が麻痺して、情けなく上擦った声が出た。くそ。伊吹、起きたら絶対殴る。

「おい…おいっ、おき、ろ、起きろ、いぶき!!」

 仰向けになった伊吹の胸が僅かに上下している。生きてる。俺たちはまだ。

 いつのまにか、見下ろす久住の姿はかき消えていた。背後から銃を突きつける者も今回は現れない。 それを気にも留めずに、志摩はほとんど転がりこむようにして伊吹のもとに寄り添った。 まだ諦めるわけにはいかない。手放してなんかやれない。お前に言わなきゃならない事があるんだよ。

 志摩の手が伊吹の胸ぐらを強く掴んだ。

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