青の幽霊(3)
1996年5月中旬 15歳
湘北高校近く あるファミレスにて
*
「ひまだねぇ」
「ああ暇だ」
「パチンコもしばらく無理だなぁ、謹慎中に有り金全部すっちまったし」
「なんか面白いことないか」
「ねーよなんも」
「いっそ俺らもなんかやるか、スポーツ」
「しんどいのパース」
「そもそも俺らみたいのが入れる部活なんかそうねーだろ」
「花道のやつだって半ば押しかけ入部みたいなもんだ」
「違ぇねー」
「あ、花道は?」
「部活は休みだけど自主練だとよ」
「かぁ~涙ぐましいねぇドシロート」
「試合出るたびに伝説作ってちゃあさすがにな」
「あの花道がいつまでキレずに我慢できるか見ものだな」
「先週のデビュー戦、見に行けなかったのがつくづく悔やまれるぜ」
「バスケ部、俺らしばらく近寄れねーもんなぁ」
「しばらくっていつまでよ」
「…ホトボリってやつがさめるまで?」
「それいつ?」
「うーん」
「はぁ…つまらん。せっかく面白かったのに」
「おい、今日洋平もこねーの?」
「バイトだって」
「あいつ最近付き合い悪くないか」
「知らん」
「なんか金貯めてるらしいぞ」
「女でもできたかなぁ」
「…女ならまだいいけど」
「何それ。あ、そういえばここさ、出禁になってなかったな」
「普通に入れた」
「ドリンクバーだけで粘ってると店員の視線が痛いのは相変わらずだけど」
「誰かさんのおかげで大事な癒しの場がなくならなくてよかったぜ」
「っんで俺なんだよ。洋平の野郎がプッツンキレたんだろ」
「…分かってて煽ったくせに」
「大楠はそういうとこあるぞ」
「ある」
「あー?―――俺はなぁ、洋平がみっともなくて見てられなかっただけで」
「洋平は昔からなりふり構わないだろ、花道のことになると」
「じゃなきゃあんな風にかばったりできない」
「だな」
「・・・。」
「あーあ、謹慎何回で停学だっけ?んで停学何回で退学?」
「中学と違ってギムキョーイクじゃないのによぉ」
「ほんとにバカだよな洋平は、花道バカ」
「それを言うなら付き合ってる俺らも大概バカだけどな」
「ちげーねぇ、洋平バカってとこか!」
インターハイの地区予選が始まって、早くも2週間が過ぎた。初戦三浦台戦に勝利した後、湘北は順調に勝ち進み、角野、高畑両校に対しても100点越えの圧勝を飾ったらしい。相手選手の頭にダンクをかますという衝撃の公式戦デビューを飾った花道は今、洋平の斜め前方の窓際で机に突っ伏している。よく晴れた水曜日の2時間目。古典教師の文法解説が間延びした声で滔々と続くのをよそに、教室の中でひときわ目立つその大きな背中はわずかに上下している。校則によれば6月いっぱい学生服着用ってことになっていて、ほとんどの生徒が黒い学ランを身に着けて見た目にも暑苦しい中、そんなことにはお構いなしの花道だけは白い半袖Tシャツ姿ですやすやと眠っていて、カーテン越しの柔らかな光に照らされたそこだけ、先に夏が来たみたいだった。規則正しい寝息まで聞こえてきそうで、洋平はこっそり耳をすませてみる。あんな寝方をしちゃあ髪が崩れてしまいそうだが、丸まった背中に盛り上がる肩甲骨の向こうに半分ほど覗いた赤い頭のリーゼントは、居眠りの前からすでにずいぶん無造作に乱れている。県大会の予選リーグが始まっていよいよバスケ部の練習にも熱が入っており、授業前にも花道たちは、毎日1時間半程度の朝練に励んでいる。汗を拭きながら教室にやってくる頃には、スプレーで固めた髪はところどころほぐれてバラバラと毛束が垂れていることもあるが、どうせ昼練でまた崩れるからとそのままにされるのが常だった。このところ練習疲れのせいか眉間にはしわが寄っていて、いつも表情が険しい。試合の後は特に虫の居所が悪いようで、野間たちもちょっかいをかけては鉄拳を食らっている。おかげで最近の花道はますます近寄りがたい雰囲気を醸し出していて、以前に増して廊下ですれ違う生徒がぎょっとしたように道をあけたり、よその不良と目が合っても向こうがそそくさと視線を逸らすようになった。もっとも、治安の悪さでは折り紙付きの湘北校内で近頃だれも絡んでこないのは、三井たちとの一件に尾ひれがついて噂になっているせいだと思うが。
三井といえばあの事件後、安西先生の計らいもあって無事バスケ部への復帰を果たし、部の一員として真面目に練習に参加しているらしい。それどころか、早速試合に出てブランクを感じさせない大活躍を見せているそうで、花道は感心したりやっかんだりで忙しそうだ。スポーツの世界のことは洋平にはてんでわからないが、神奈川県の中学MVPというのはきっと伊達じゃないんだろう。その三井が長髪をばっさり切って、つきものが落ちたようにさっぱりした顔になったのを見たときは、洋平も内心驚いた。あんな風に自暴自棄な状態だったのに、短い間に人って変われるもんだ。復帰の際には先生や赤木たちだけでなく下級生にまで頭を下げて、その甲斐あってか今じゃすっかりチームに馴染んでしまったらしい。花道なんかいつのまにかミッチーミッチーと親しげだ。やっぱ一度ケツまくった奴にはどうしたってかなわねぇなと洋平は思ったが、きっとあの日体育館にいた全員が同じ気持ちだっただろう。本当に覚悟決めた奴っていうのは見ればわかる。ただバスケがやりたいという三井の切実な言葉は、バスケ部の奴らにはなおさら強く響いたことだろう。三井のバスケ部復帰は説明しようとすればめちゃくちゃな経緯ではあったが、その場にいた者はだれもが理屈抜きで納得させられてしまっていたから不思議だった。
いずれにせよ、三井の加入が今年の湘北バスケ部にとって大きなプラスになったのは間違いない。部員たちに一切お咎めのない形でそれを成し遂げたのは他でもない、洋平たちだ。謹慎明けの昼休み、久々に屋上でたむろしていると赤木と木暮が連れ立って訪ねてきて、何事かと思えば真摯な謝罪と礼を受けてほとほと困ってしまった。「俺らが勝手にやったことなんで」「頼むからやめてくださいよ」と恐縮していると、「本当は俺たちが始末をつけなきゃいけなかったのに、ずっと棚上げにしてきたんだ。それをお前たちに負わせてしまって」と木暮さんが眼鏡の奥で涙ぐむので余計焦った。体育館の話を断片的に聞いただけだが、あの3人の間にはどうやら簡単には説明できない連帯感のようなものがあるらしかった。洋平が最後に「あんなだけど花道のこと頼んます、どうやら本気みたいなんで」と伝えると、赤木キャプテンは「あいつ次第だがな」と言いつつも力強く頷いた。
あの時なぜ三井まで助けたのかと問われたら―――不思議と誰にも訊かれないので洋平が自問自答しているだけだが―――どうだろう、洋平自身にもよく分からない。花道には後から4人まとめて、カッコつけすぎだって怒られた。いい格好したかっただけというのは正直まぁある、見栄とメンツが命より大事な不良をやってる以上。でも大楠たち桜木軍団はともかく、三井のツレやバスケ部の面々が自分の策に乗ってくれるかどうかは賭けだったから、ああ見えて洋平は必死だった。堀田の言動を見れば心底三井を思っているらしいのは分かったが、花道とやりあった大男(しばらく体育館の床に伸びていた)が、言葉少なながら口裏を合わせてくれたのは助かった。結果的に、花道の新しい居場所を守るためにはあれが最善だったと洋平は思う。三井のひたむきさに心動かされたのも確かだ。でも、あのとき洋平の心中にあったのはそれだけではなかった。
花道が夢中になれるものを見つけた嬉しさと、自分たちの元を去っていく寂しさの板挟みになって、情けないことに洋平はずっと立ちすくんでいた。花道にどうなってほしいのか―――自分が花道をどうしたいのかわからなくて、その苛立ちをぶつけるように三井を殴りつけた。腹が立って仕方なかった。俺がこんなに迷ってるってのに、横からぽっと出てきた野郎にめちゃくちゃにされてたまるか。殴っても殴っても、三井は立ち向かってきた。こいつに何をさせればいい?謝罪か。償いか?いや、約束だ。バスケ部に二度と手を出させないように、花道の新しい居場所を壊させないように。三井をボコボコに殴るたび、変な迷いが剥がれおちて自分の本心がはっきり現れていく気がした。どれほどやられても、どうしてもバスケを諦められない三井の姿がそうさせたのかもしれない。全力で打ち込めるものがあるなんて、きっと誰にでも訪れる幸運ではないんだ。花道はそれを手にしかけている。選択を迫られて、洋平はやっと腹の底から理解できた。花道がこの先どう変わろうが、花道が選んだ道を守りたいんじゃないのか、俺は。洋平もまた、あのときケツをまくったのだ。
重い処分は覚悟の上だったが、派手にやらかした割に謹慎3日で済んだのは少し意外だった。襲撃事件に加わった三井の手下たちには5日間の謹慎処分が下った。成り行き上、彼らは洋平たちと一緒に暴れたことになっていて、3年の堀田と1年の水戸が主犯格ということで仲良く校長室で事情聴取を受けた。堀田は大きな体を縮こまらせて洋平が飄々と説明する出まかせにあいまいな相槌をいれるばかりで、その様子は同情を誘った。実際リーダー格の三井があんなことになっては立つ瀬もなかっただろう。彼らは今頃どうしているのか、以前は連れ立ってわが物顔で校内を闊歩していたが、あれ以来姿を見ていない(それもあって、3年の不良グループを入学早々桜木軍団が潰したのだと、あながち間違ってはいない噂が出回ってしまっている)。
バスケ部に戻った三井の方もさぞ肩身が狭いはずだったが、お世辞にも強豪校とは言えない湘北バスケ部の中でその腕前は抜群で、試合に出ずっぱりだそうだ。スタメンの椅子を奪われたことになるバスケ部の部員たちがどういう気持ちでそれを受け入れているのか、洋平にはうまく想像できない。長い間努力してきた自分の頭上を、才能のあるやつが軽々と飛び越えていくのはどんな気分だろう。試合に出られなくなっても、チームが強くなればそれでいいのだろうか。それは俺たちや、堀田みたいなやつらの集まりと何が違うのだろう。友達だけど微妙な競争と力関係が確かにあって、居心地が良いけど嫌な部分がないわけじゃない、だけど外の敵には一緒に立ち向かう。何も違わないようにも思えるし、まるっきり違う気もする。そんな世界へ、花道はひとり飛び込んでいった。
初心者が入部早々公式戦に出られること自体、まずありえない大抜擢ではないだろうか。花道の人並外れた体格と運動能力、そして負けず嫌いな性格は洋平たちが一番よく知っているし、監督もキャプテンもその素質を買っているということだろう。いわば将来性に期待されているということだ。だから一度も点を取れなくたって、毎試合退場になったって仕方ないはずだけど、そこはどうしても天才のプライドが許さないらしい。高宮たちが試合結果を尋ねただけで頭突きが飛んでくるし、眉間のシワは日々深くなっていく。試合のたび花道なりに思考錯誤はしてるようだが、素人考えでは打開策が見いだせないでいるようだ。監督も助言のひとつしてやればいのに、黙って試合に出し続ける思惑が分からない。花道の根拠のない自信をへし折っておこうというつもりだろうか。
爆睡中の花道のとなりを、古典教師が教科書片手に見て見ぬふりで通り過ぎていくのを眺める。窓のカーテンが風でゆったりと膨らみ、赤い後頭部の耳のあたりに陽だまりができて気持ちよさそうだなと思った。大きな背中がゆっくりと上下する。よく寝てる。そういえば「天才だからな」の決まり文句もしばらく聞いてないような気がした。桜木花道から自信を取ったら一体何が残るっていうんだろう。晴子を振り向かせたいだけならまだよかったかもしれないのに、今の花道はまるでバスケに片思いしてるみたいだ。女の子相手と違って、うまく慰めることができずにただ横で見ているのは辛いものがる。まだほんのひと月くらいだけど、毎日毎日おまえは十分良くやってるよと、大きな背中に心の中で呼びかける。
*
その日の帰り、校門を出たところで後ろから呼び止められた。
「洋平くん!今帰り?」
足を止めて振り向くと、学生カバンをたずさえた赤木晴子が駆け寄って来る。ひとりだ。
「ああ、晴子ちゃんか。今日は早いんだね」
「ちょっと予定があってね。良かったら途中まで一緒に帰らない?」
晴子たちの日課になっている放課後の見学を休んで行く用事は、どうやらさほど急ぎでもないらしい。晴れやかな笑顔で誘われて、断る理由が見つけられず並んで歩きだした。
晴子たちは、その後も変わらずバスケ部の練習や試合を見に行っているらしい。暴力沙汰を目撃してしまった女子3人の事が洋平は少し心配だったが、図太いというかたくましいというか、少なくとも晴子は三井のことが特に怖くはないらしく、洋平や花道に対しても態度を変えたりはしなかった。花道の奴は、今日は晴子さんに褒めてもらえたとか、頂いた差し入れがもったいなくて食えないだとか、練習後洋平たちに自慢しては幸せそうな顔で鼻の下を伸ばしている。花道のやる気が、毎日顔を出してくれる晴子のおかげで維持できているのは間違いない。
それにしても普通、男女で一緒に下校するとなれば多少は意識してしまいそうなものだが、晴子の誘い方はいかにも自然で屈託がない。こどもっぽいと言えばそれまでだが、赤木晴子は変に取り繕うところのない素直な性格だと洋平は好意的に評している。ただしふたりで歩いてたなんて花道が知ったら大変なことになるに決まってるし、大楠たちに見られたら面白がってバラすに違いない。誰にも見つかりませんようにと洋平は胸の内で念じる。
「なんか洋平くんと話すの久しぶりだね。最近体育館来てないよね」
「バイト増やしたんだ」
「そうなんだ。何か欲しいものがあるの?」
「いや…別にそういうわけでもないけど、そうだな、16になったら免許でも取ろうかな」
ほら、いつまでも無免許ってわけにもいかないしと原付のハンドルを握る真似をして笑うと、偉いねぇ、洋平くんって働いてるしなんか大人だよねと心の底から感心されてしまって、この子といるとなんだか調子が狂うなと思う。苦手っていうわけじゃないけど。
「最近花道どう?あいつ頑張ってる?」
「すっごく頑張ってるよ!試合ではすぐファウル取られてフンガイしてるけど、退場までの時間、だんだん伸びてきてるんじゃないかな。桜木くんフィジカル強いし反応もいいからファウルになりやすいんだよ」
「晴子ちゃんにそう言って慰めてもらえたってこの前喜んでたよあいつ」
「やだ慰めてるわけじゃないよ、ほんとのことだもん」
「お世辞で言ってるわけじゃないから効くんだろうな。花道を乗せるのが上手いよ晴子ちゃんは」
洋平よりも頭半分背の低い晴子に足取りを合わせてゆっくり歩く。足元のローファーも洋平のより二回りくらい小さくて、あの赤木の巨大なバッシュと一緒に玄関に並んでいたらちょっと面白そうだ。そんなことを考えていると、隣を歩きながら晴子が洋平の顔を覗き込むようにして聞いてきた。
「洋平くん、こないだの試合もいなかったね。もう応援には来ないの?」
「んー、そうだな」
初戦の三浦台戦と違い、続く試合は学校が休みの日だったけど、結局洋平たちはなんやかや理由をつけて見に行かなかった。花道からも特に誘われなかったし。
「この前の陵南との練習試合、応援するの楽しかったでしょ。皆がバスケ好きになってくれたんじゃないかって私ちょっと期待してたのよ」
確かに、と洋平は頷いた。ルールはほとんどわからなかったが、あの日の試合は思ったより楽しめた。展開が目まぐるしくて、スピードもパワーもすごい。ひとりだけ明らかに素人の花道にボールが渡るたびにハラハラして、客席からやじを飛ばすのもまた楽しかった。
「桜木くん、あれからまたどんどん上手になってるよ。洋平くんたちのおかげで三井さんが復帰できたんだし、また見に来てくれたら皆喜ぶと思うわよ」
「んー。まぁでも表向き、俺らがバスケ部襲撃したってことになってるからね。三井サンだって嫌でしょ」
「そうかしら。気にするような人じゃないと思うけど」
そりゃそうだ、確かに気にするような奴ならバスケ部復帰できてないかと、洋平はまた少し笑った。それを見て晴子は、一瞬逡巡するような表情を見せた後、意を決した風に切り出した。
「ねぇ、洋平くん。試合見に来てあげなよ」
「応援に?俺らの柄じゃないよ」
「桜木くんのためだよ」
―――花道のためか。花道のため。
それはバスケットマン桜木花道のためであって、桜木軍団の花道のためではない。
「花道が元気にバスケできてるなら、俺らの役目は済んだってことだよ」
この話はおしまい、という風に微笑んでみせると、晴子はちょっと考えるようにしてから上目遣いに洋平を見返した。
「そういうものかしら」
「そういうもんだよ」
私には分からないわ、と前を向いて晴子はつぶやく。唇をとがらした横顔が、全然似てない兄妹だと思っていたけれどやっぱりどことなく赤木に似てるな、と洋平は思った。真面目一徹の実直な赤木キャプテンと、おおらかで裏表のない晴子。この育ちの良さそうなきょうだいがきっと花道を良い方へ連れて行ってくれるだろう。
空が高い。交差点の向かいに立っている潮風で錆びついたカーブミラーに洋平と晴子が小さく映っていて、まるで高校生のカップルが仲良く歩いてるみたいに見える。花道だったらもっと絵になるのになと他人事のように思った。
しばらく無言のまま歩き、やがて高台の住宅地へ続く分かれ道について、私こっちだからと言う晴子にじゃあと手を挙げた。晴子は淡く微笑んでから背を向けかけたが、突然思いついたようにこちらを振り返った。
「ねぇ、洋平くんは神様って信じる?」
藪から棒に訊かれ、洋平は目を瞬かせた。
「晴子ちゃん。俺が神様に祈るような奴に見える?」
「私だって別に祈ったりはしないよ。あのね、いるのよバスケの神様は。有名な話なんだから。神様の気まぐれでボールがリングに嫌われるとか、あっちについたりこっちについたりして試合の流れが変わるの」
「…まぁ、そういうことを言うならいるんだろうね」
話が見えなくて当り障りのなさそうな言葉を返す。2、3歩こちらに距離を詰めて、晴子はまるで大事な秘密を教えるみたいに真剣な表情で続けた。
「それでね洋平くん。バスケの神様に愛されてる人っているんだよ、流川くんや桜木くんみたいに。三井さんだってそう」
うちのお兄ちゃんもね。と晴子は最後に付け足した。その言い方はただ身内を謙遜しているというより、どこか複雑な色を帯びているように思えた。
「神様に愛される人っていうのは―――ちょっと分かるかも」
洋平が思い浮かべるのは、大きな獣が飛ぶように走る脚で、鉄パイプで殴られてもびくともしない大きな肩で、小さい奴なら片手でぶん投げられる腕だった。晴子はうなずいて続けた。
「でも、そんな人でも神様の力だけじゃ続けられないんだよ。負けることもあるし、うまくいかなくて苦しいこともたくさんあるから。選手って孤独なの」
「…そうかな。バスケ部の連中がいるだろ」
「チームメイトって仲間だけどライバルでしょ。弱いとこ見せられないんだよ」
洋平は先日の大楠との喧嘩を思い出した。花道やあいつらにカッコ悪いところは見せられない。そんな洋平を大楠はみっともないと詰った。本当に、それはきっとその通りだった。
「しんどい時、最後は自分でなんとかするしかないのよ。自分との闘いなの。そんな時に、大丈夫だよ出来るよ、頑張ったねって見ててくれる人が必要なんだよ。だれにでも」
まっすぐこちらを見上げた晴子に視線をとらえられる。つやつやした大きな瞳が、洋平の姿を写して光っている。
「桜木くんが頑張ってるとこ、一番見ててあげられるのは洋平くんなんじゃない?」
「―――それは」
それは晴子ちゃんだよ、と言いそうになったのをなんとかこらえた。なんで?俺なんかただのダチだよ。あいつがバスケ始めたのだって晴子ちゃんに誘われたからだ。バスケが大好きなんて言ってたけど、ボールなんかまともに触ったことなかったの。あいつは和光中で一番の、手の付けられない不良だったんだから。晴子ちゃんがあいつの全部を塗り替えちまったんだよ。
「私は才能なかったけど、でもバスケが好きよ。バスケやってるお兄ちゃんや桜木くんたちが好き。だから応援するの。洋平くんは?」
どう答えたらいいのかわからなかった。
なぜ俺なんだ。仲間うちで楽しくやってりゃいいんじゃないのか。
それに、それに今晴子がしているのはそんな話じゃなかった。
晴子はもうバスケ部じゃないけど、でも、あいつらと同じだった。
ねぇ、なんで皆そんななの?あの人も言ってたじゃん、バスケなんてただのボール遊びだろ。せいぜい高校の間だけの部活動じゃないか。
そう言いたかったけれど、言えるほど洋平はこどもではなかった。他の誰でもなく晴子にそれを言ってしまうのはひどい甘えだと分かっていたから。だから代わりに尋ねた。
「晴子ちゃんはさ、なんでバスケやめちゃったの」
晴子は大きな目を見開いて洋平を見つめた。まるでそれが意外な質問だというように。
「…うん。うん、あのね。もういいかなって思って。私はここまでかなって」
「それだけ?」
「それだけ」
ふたりの間に沈黙が流れた。
「そーいうもん?」
「そういうものだよ」
いつか頑張れなくなる時が来るかもしれないんだよ。だれでも。頬に髪がかかって影を落としていた。少しの間遠くを見ていた晴子は、ふっと視線を上げて笑いかけた。
「今の桜木くん見られるのって今だけだよ、洋平くん」
「初心者の花道を見逃すな、ってこと?」
「そう。すぐ上達してほんとに天才バスケットマンになっちゃうよきっと。」
じゃあね、と笑って手を振り晴子は踵を返した。スカートの裾がひらりとひるがえって、アスファルトに白い脚が映える。通学カバンを両手で提げて歩く後ろ姿はどこから見ても”小柄で清楚で大人しそうな少女”だったけれど、洋平の頭に残ったのは「もういいかなって」と言った晴子の顔だった。誰からも好かれる女の子で、才能のある兄がいて、おそらく裕福な家庭でのびのび生きてきて、けれどどうしても欲しかったものを諦めたのかもしれない赤木晴子。花道に好かれていて、今の花道をちゃんと見ていてくれるけど、その役目は自分のものじゃないと言った彼女の言葉にならない本心を、少しだけ覗いてしまった気がした。
さっきの自分が彼女と同じような顔を見せてなきゃいいけどな、と洋平は思い、晴子の後ろ姿をしばし見送ってからバイト先へ歩き出した。