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青の幽霊(4)

 こっちに来てしばらく経ったころ、同じ夢を繰り返し見るようになった。
 塔を登る夢だ。

 それは白くて四角い大きな塔で、壁の内側に沿ってぐるぐると鉄の階段が付いている。夢の中でオレは、その階段を休むことなく上っていく。ほかには誰もいない。目的地も制限時間もなくただ、一段一段を確実にふみしめて上っていく。階段より内側はからっぽで、上を見上げても下を見おろしても何も見えない。もし手すりから落ちたら底まで落ちてしまうってことだが、覗き込んでも不思議と怖い感じはしない。
 その塔は、どうやら大きな橋の一部になってるらしい。結局こっちにいる間に自分で見に行くことはなかったけど、テレビにもよく映ってる世界的に有名だっていうあの橋だ。オレが上っている塔はその長くて大きい橋を支えるための柱になっている。根元は海の底深くに突き刺さっていて、先の方は空に向かってどこまでも伸びている。内側は全体が白っぽく塗られていて、壁には大きな窓がたくさんついているからけっこう明るい。冷たい感じではなくて、なんとなく住み慣れた部屋の中みたいな雰囲気で安心する。たぶん現実はこんな塔はどこにもないんだろうと思うけど、行ったことがないから確かめようがない。

 窓には内側に鍵がついていて、出ようと思えばいつでも出られる。窓から外を見下ろすと、そこは海―――オレが育った町から見るより、もっとずっと広い海に面した港だ。陸地の方には町の明かりが見えるし、向こうには水平線も見える。塔の窓は、そこから外に出ようなんて思いつかないくらい高いところにある。なのにときどき半分くらい開いていて、その窓に面した踊り場のところにはさっきまで誰かがいたような気配が残っていたりする。

 しばらく上り続けると踊り場に出た。簡単なベッドと机が作りつけてあって、小部屋のようになっている。見覚えのない場所だ。机の上には子供用のおもちゃが散らかっている。色の塗分けられた積み木と、小さい木琴。自分のものではなさそうなので触らないでおく。
 今日もまたすぐそばの窓が開いている。外は夜だ。開いた窓から風が入ってきて、”誰か”がついさっきそこから出ていったような感じがした。もしかしたらここは”誰か”の部屋なのかもしれない。窓に近づいて外を覗いてみる。塔の外側に足場になるようなところはなくて、海に何か落ちているのではと思って目をこらしてみたが、波があるともわからない黒っぽい水面は遠すぎて何も見えない。風が吹いて海の匂いを運んでくる。さっきまでいたかもしれない”誰か”はここから外へ飛んで行ったのか。ここがその”誰か”の部屋なのだとしたら、また空を飛んでここに戻って来るだろうか。懐かしいような、会いたいような気もするけど、オレには追いかけて行くことはできない。本当に居るのかどうかも分からない”誰か”は、こんな場所からどこへ飛んで行こうというのだろう。

2012年6月下旬 31歳

 目的地へのまもなくの到着を知らせる機内放送で目が覚めた。ボストンから羽田への直行便に揺られること半日以上、花道は前後左右に気を遣いながらエコノミーのシートに押し込んだ身体を控えめに伸ばす。こんな狭い空間で寝られるわけがないと思ったけど、引っ越しやもろもろの手続きで頭を使うことが続いて思ったより疲れていたみたいだ。飛行機の中で長時間じっとしていただけでなく、ここ数日まとまって運動する時間をとれていないのもあって、身体じゅうの関節がむずむずしてたまらない。部屋に落ち着いたらすぐどこかへ軽く走りに出よう。できればボールにも触っておきたいが、昔よく自主練した屋外コートはまだあるだろうか。

 今期限りで日本に帰るつもりだとゴリ―――かつて湘北高校で1年間、というより実際はたった4カ月程度だったが、しかし花道の人生で最も濃い時間を誰より近くで共にした赤木剛憲にメッセージを送ったのは、まだNBAの下部リーグがシーズン半ばの2月末ごろだった。数年ぶりの連絡だったにも関わらずすぐに国際電話をかけてよこした赤木に、日本でバスケをやりたいからしかるべきところへつないでほしいと頼んだ。大学卒業後に実業団の強豪チームに在籍してもうベテランの域になっている赤木は、これまで何度も日本に帰ってこないか、また一緒にやらないかと花道に声をかけてくれたが、そのたびにまだこっちでやることがあると断り続けてきた。日本でなら同世代の流川や沢北のように第一線で活躍できると言われても、それは帰る理由にはならなかった。今帰るなら流川がアメリカを去った時に自分だけ残った意味がないと思った。
 流川はアメリカの大学リーグで3年間プレイして、その後帰国した。別の州だったのと、流川はディビジョン1、花道は留学生向けの奨学金が出たディビジョン2の大学に入ったので、在米中に顔を合わせたのは数えるほどだった。日本代表候補としてアジア杯に召集された時、花道はやっと流川と同じコートで肩を並べられることに意気込んだが、その流川が見ていたのはもうNBAではなく日本バスケ界のレベルアップだった。翌年のW杯出場権の獲得にはまた届かずに終わったアジア大会後の懇親会で、飲み慣れない紹興酒で真っ赤になりながら「俺は日本に帰る」と宣言した流川に、花道は激昂した。流川がNBAプレイヤーになることも、それを追いかけていつか自分が同じ場所に立つことも、花道にとっては言葉の通じない異国で生きていくための拠り所だったから。花道より1年先に渡米した流川がこのとき既に世界とのレベルの差を嫌と言うほど実感していたのだと、後になって花道にも分かった。流川が帰国する直前に電話がかかってきて半分怒ったまま出ると、「おめーはやれるとこまでやってこい」と言われた。なんだそれ、キツネのくせに尻尾巻いて逃げるのか、オレは諦めねーからなと怒鳴って電話を切った。どんな時でも、山王戦のさなかでさえ花道と流川だけは一度も諦めることがなかったはずなのに、その流川が帰国してしまうと思うとバカみたいに涙が止まらなくなった。いつだって目指す道の先に居た流川楓の姿は、このとき花道の目の前から消えてしまった。

 13年に及んだアメリカでの暮らしを畳んで日本に帰るとなると、さすがに寂しさはあった。結構仲のいい友達もできたし、帰るなと言ってくれた人もいる。選手が難しいならバスケ関係の仕事を紹介してやると言う人だっていた。ありがたかったし、これまでやってきたことがちゃんと評価されていると思うと嬉しかったけど、全部丁寧に断ってきた。後悔はない、来るのも帰るのも自分で決めたことだからだ。やるべきことはやりきった。今はもう、数年ぶりの帰郷に気持ちは自然と上向きになっている。赤木は電話で花道の決断を聞くとすぐ、自分もシーズン中で忙しい合間を縫って、国内のいろんな関係先に連絡して受け入れ先を探してきてくれた。ゴリはああいう男だからきっと業界じゅうに顔がきくんだろう。メールと電話で何度かやりとりして決まった新しい所属先を、同じところでやれないのは残念だがここならきっとお前に合ってるはずだと勧めてくれた。オレ専属のエージェントみたいだなと茶化して電話越しにどやされたが、その声はまんざらでもなさそうだった。
 日本についたら新しいクラブと打ち合わせの約束になっている。その後すぐ赤木に会いに行くつもりだ。所属先には見知った顔もいるし、こういうのはワクワクする。新しいところで、新しいひとたちに囲まれて、また始まる。それに何より、懐かしい顔にももうすぐ会えるのだ。

  *

 花道の乗る飛行機は、梅雨明けの遠い曇り空の下を洋平たちの待つ空港の滑走路へ降りてきた。航空会社の搭乗員の制服についてだべったり、ソワソワと浮かれた顔のお互いを小突きあったりしながら待っていると、ほどなく長旅に疲れた顔つきの人混みが搭乗口から流れ出してきた。花道、花道―――いた、多分あれだ。ひと目でわかる赤い短髪の男は、ジャージのハーフパンツにTシャツというちょっとコンビニにでも行ってきたみたいなラフないでたちで、肩にはバッシュがくくりつけられた大きなスポーツバッグ、それと小さなスーツケースを転がしながら歩いてくる。人混みの中から飛び出た頭を見つけて洋平が表情を変えると、その視線の先を追った野間が「おう花道、こっちだ」と声を上げた。花道は人々の頭上からキョロキョロこちらの居場所を探し、通路脇で待つ旧友たちの姿を見つけると破顔一笑、ずんずんと大股で近づいてきた。

「おまえら!!」

 エネルギーに満ちた声がはずんで、まわりの空気ごとぱっと明るくなる。こちらが感慨に浸る間もなく、丸太みたいに太くて長い腕が左右に大きく広がったかと思うと、そのまま4人まとめて抱きかかえられた。でかくて分厚くて体温の高い、炉心みたいな身体。嗅ぎ慣れない外国の石鹸の香りがする。まごうことなき桜木花道だ。

「ひさしぶりだなおい!」
「うぉーーー花道ーーー!!」
「またでかくなりやがって!」
「おまえらがちょっと縮んだんじゃねーのか」
「バカ言え!」
「おい首!締まってる締まってる離せ!!」

 抱きしめられて大きな掌で遠慮なくバシバシと背中を叩かれると、あの頃に戻ったみたいに錯覚してしまって一瞬で胸が熱くなった。人目を憚らずいい歳の男たちが大声ではしゃぐ姿に周囲の旅行者が怪訝そうな目線をよこしながら通り過ぎていくが、洋平たちの誰も気に留めたりはしない。むしろ紙吹雪を散らさないだけ大人になったというものだ。彼らが直接顔を合わせるのは実に5年ぶりのことだった。

 腕をほどいた花道が、両端の大楠と洋平の肩に手を置いたまま、ひとりひとりの顔をぐるりと見渡す。
「大楠、相変わらず尖ってんな!
 野間、やっと顔に歳が追いついたか!
 高宮、ますます貫禄ついたな!」
最後に洋平に視線を合わせ、
「おう洋平。全然変わんねーな」
「…お前もな」
 見おろしながら不敵な笑みで言われたので、同じ顔して見上げてやる。あの頃のままのやりとりに口角が上がって仕方ない。いや、三十路にさしかかった自分たちがあの頃と同じわけないのは分かっているけれど。それでも実際今日の洋平と大楠は示し合わせたようにあの頃と同じリーゼント姿で集合場所に現れてお互いの頭を見た瞬間爆笑し(最高だなと言いあって肩組んで写メを撮った)、逆にいつものボサボサ頭でやってきた野間は、仕事柄妙なカッコはできねえんだよとぶつぶつ言い訳していた。高宮はもちろんサングラスに派手な柄シャツといういつもの格好だ。高宮が変わったのはサイズだけだなぁと花道が笑う。そういう花道は記憶の中より頬の線が尖って、逆に力強い眉の下の目もとは少し緩んだようだ。高校のころに190㎝を超えた身長はさすがにもう伸びてないはずだが、胸板が以前より分厚くなったのもあって記憶の中よりさらに大きく感じる。それでも長いあいだ花道不在だった桜木軍団がようやく本来の形に戻って、みんな高揚感に満ちた顔で目くばせして喜びを確かめ合った。

 フライトの直前まで飯食ってたら搭乗口を間違えて乗り遅れそうになったとか、エコノミーの座席があまりに狭すぎてずっとシートで体育座りしてたとか、やっぱ日本の空港に着くと醤油っぽい匂いがするとか。そういうとりとめない話をしながら荷物を待つ。なかなか出て来なくてちょっと焦りはじめたころにやっと、花道の分身みたいに大きなピンク色のトランクがゲートの奥から顔を出した。アメリカでの数回の引っ越しの際にもこれひとつで移動を済ませてきたという花道は、今回だけは友達や同僚からの土産の品が入りきらずに、急遽人から譲り受けてもう一つ機内持ち込みサイズのスーツケースを持って帰ってきたらしい。肩から下げたバッグもドでかいトランクもどことなく花道らしさを感じさせる大きさと色合いだったが、手持ちのスーツケースだけは銀色で無機質ないかにもビジネスタイプだった。気前よくこれを譲ってくれたという友人がどういうやつだったかは分からないが、花道が海の向こうで得たものが詰まってると思うと、スーツケースひとつとっても感慨深いものがある。

 荷物を手分けして持ってやって空港の出口に向かい、先に出た高宮が乗り場に回してくれていたバンに乗り込んだ。狭い後部座席には洋平と野間が足を縮めて収まり、真ん中の座席を花道と荷物が占領すると車内はもうぎゅうぎゅう詰めだ。この車は高宮の店のもので、白いハイエースの横腹には店の屋号と高宮っぽい丸顔の似顔絵が描かれている。思い返せば13年前に花道を送り出した日も、今日と同じように店の社用車を借りてきてみんなで空港まで花道を乗せて行った。そのころの洋平たちはまだ高校を出て働きだしたばかりで、金のない中ではあったが仲間の門出を盛大に祝った。花道の渡米にあたっては、学力面の指導を買って出た晴子たちや留学の取次ぎに奔走してくれた学校関係者だけでなく、軍団のサポートが一役も二役も果たしていたから、みんな雛鳥の巣立ちを見送る親鳥さながらの気分だった。出発の前日には一昼夜寝ずの宴会が続き、全員グダグダの状態でなんとか空港にたどり着いて、別れもそこそこというひどい有様だった。そのおかげで公衆の面前で泣いて別れるような事態にはならずにすんだけど。出発の日を逆再生しているみたいに今、花道を連れて神奈川へ向かっているのが不思議だった。

 新しいチームとの契約が済んで住む場所が決まるまで、花道はとりあえずウィークリーマンションを借りることにしていた。途中でマンションを管理する事務所に立ち寄って鍵を受け取り、そのまま海沿いの国道に出て目的地へと車を走らせる。曇り空なのが惜しかったが、花道は車窓から目を細めて「おー、湘北の海だ」とつぶやいた。アメリカでは一時期沿岸部の町に住んでいたこともあるらしいが、そこの浜辺はごつごつとした岩肌でこのあたりのビーチとはかなり様子が違ったらしい。
「あんまり泳ぎには行けなかったけど、スーパーに売ってるエビとか魚が安くて旨かったんだよな。その後チームの拠点が内陸の方の町に変わっちまってよ。だから海見るの久しぶりだ」
 そう言って後部座席の窓を半分ほど下ろし、海の匂いを確かめるように風に吹かれる花道を洋平は後ろの席から眺めた。
 たった一度だけ、洋平たちが海を渡って花道を訪ねた先も、大学の敷地の他には住居が転々と散らばるだけの内陸部の田舎町だった。郊外はどこもああいう感じなんだろうか、それとも沿岸部ならもっと賑やかで都会的なのだろうか。花道のアメリカでの暮らしを想像してみても、そのイメージはあまりに遠いところにあって、いつも漠然としている。

 沿岸を小一時間走って、ウィークリーマンションに到着した。そこは昔花道たちが住んでいたところから何駅か離れた場所に位置していて、オンシーズンにはサーファーが長期滞在するようなキッチン付きのワンルームだった。水回りはじめ、とりあえず生活に必要なものはひととおり備え付けられている。「安いホテルでもよかったんだけど、食いもんは自炊の方がいいからな」と言う花道は、しばらくここにいるならもう一つフライパンくらいあった方がよさそうだな、とIHコンロが備わったキッチンを確認している。ガキの頃から身の回りの事は自分でできる奴だったけど、花道の言う”自炊”にはアスリートとしての食事管理の意味合いも含むのだろう。「職業:プロバスケットボール選手」というSNSのプロフィールどおり、花道は何年ものあいだ本場でプロ選手としてやってきたのだ。専属スタッフが付くような環境ではなかったようだから、トレーニングとか食事管理もある程度自分でやってきたのだろう。たとえ目指していたNBAプレーヤーには手が届かなかったとしても、それは紛れもなくすごいことだ。
 荷物を運び込んで部屋を検分している間に、野間と高宮が食料と飲み物を調達して戻ってきた。8畳程度のマンションの一室は男5人がくつろぐには狭すぎるが、とりあえず家具をずらして空間を作ったフローリングの上に車座になって腰をおろし、めいめいにビールの缶を手にした。

「わりぃな高宮、車出してもらってよ」
 ぷしゅっと音をたててコーラの蓋を開けた高宮を見て、花道が申し訳なさそうに言う。
「いんや、高宮は飲まねーんじゃなくて飲めねぇの」
「残念ながらこの後仕事なんだ。気にすんな」
「そうじゃないだろ、痛風なんだよこいつ」
「飲み屋やってるのにな?」
「うるせ~、痛風は飲み屋やってるせいなの!職業病ってやつよ」
「酒より食いもんのせいだろお前は」

 集まれば何も考えずとも転がるように会話が続くのはこのメンバーの常だが、今日はみんな酒が入る前からいつも以上に饒舌だ。

「いっそ居酒屋やめて定食屋にするかなぁ」
「なんでだよ、俺らのたまり場がなくなるだろうが」
「いーや、俺は結構本気だぜ。花道、今度向こうの料理教えてくれよ。アメリカ東海岸のオススメを」
「おう、いいぜ」

 おい、乾杯すんだろうがと大楠が途切れない会話を制し、野間がえーそれではと音頭をとる。
「よく帰ってきたな花道!」
「おかえり!!」
こつんと缶を合わせて買ってきたばかりの冷たいビールをあおる。梅雨らしく蒸し暑い昼日中に仲間と酒を飲む爽快感と言ったらない。仕事の飲み会で社交辞令とともに注ぎ合う酒の味とは天と地ほど違う。花道も日本のビール久しぶりだと旨そうに喉を鳴らして、チェーン店の餃子やコンビニの枝豆なんかに目を輝かせている。昔もそうだったが、目の前で花道が飲み食いしてるのを見るだけで酒が旨くなる気がするから不思議だ。突然帰ってきた旧友を囲んで昔のように喋り飲み食いする時間は、そういうひとつひとつの感覚を思い出の中から引っ張り上げていくみたいだった。

 大の大人がこれだけ密集するとさすがに暑苦しくなって冷房のスイッチを探して腰を浮かした洋平に、花道が尋ねた。
「そういや洋平んとこのこども、今いくつだ」
「ん」
 花道から送られてきたクリスマスカードの返事に、ほんの少し迷ってから娘が生まれたよと書いて送ったのは、もうずいぶん前のことだった。
「11。今年小6だよ」
 ほんの一瞬の間の後に洋平が答えると、もうすぐ中学生か、俺らも歳とる訳だぜと横から野間がオッサンくさく唸った。花道は女の子で合ってたよなと言いながら、ベッドの上に広げたスーツケースをごそごそやっている。
「ほいこれ、土産だ。ちょっと子供っぽいかもしれねーけど」
 手渡されたのは猫のキャラクターの形をした、こじゃれた感じのチョコレートの缶だった。高宮んとこも上の子なら食べられるよなとお菓子の包みを差し出す。残った野間と大楠には、有名なやつで旨いんだぜと地ビールの缶が手渡された。
「かさばるからちょっとずつしかねぇが我慢しろよ」
「いや、まさかお前からモノ貰う日がくるなんてよぉ」
「大人になったなぁ花道…」
「おう!出世払いだって言ってたろーが」
「おまえが出世払いしなきゃいけねー相手、山ほどいるぜこの町には」
 心して凱旋しなきゃなと大楠が笑った。よくチャーハンをおまけしてくれたラーメン屋のおっさん、ほとんどいつもタダで食わせてくれた食堂のおばちゃんたち、毎日のように傷モノの野菜や果物を持たせてくれた八百屋のばあちゃん…両手じゃ足りないほどたくさんの顔が浮かぶ。何足ものバッシュをタダ同然で花道に強奪された靴屋のおやじなんか、渡米するときの餞別に最新モデルのバッシュをプレゼントしてくれた。厄介がる体で可愛がってもらっていたことが、時間を経てみるとあらためて分かる。みんな花道が帰ってきたと知ったら喜んでくれるに違いない。

 なにしろ前回の帰国から5年も経っているので、SNSのやりとりとエアメールで多少は知らせてきたものの、昔の知り合いについて花道が持っている情報の多くは古いままだった。ビール片手に、洋平たちが湘北バスケ部の面々の近況を次々に教えてやると、花道は懐かしそうに目を細めてそれに耳を傾けた。
「リョーちんってプロ何年目だっけ」
「もう10年くらいか?すげぇ人気選手だよ。オレ何度か知り合いからサイン頼まれたもん」
「バスケ雑誌にもよく載ってるぜ、流川の次くらいに。ミッチーも現役時代はすごかったよな」
「あ、三井サンが引退したのは知ってる?」
「こないだゴリに聞いた。今ハルコさんが卒業した女子大のコーチだろ?」
「そーそー。就任早々去年のインカレで準優勝だって」
「昔から教えるの上手かったもんなぁミッチー。おまえめちゃくちゃ自主練付き合ってもらってたよな」
「復帰後なんかミッチーと晴子ちゃんが花道の専属コーチとマネージャーみたいだったよな」
「野間」
洋平が小声でたしなめたらちょっと変な沈黙が流れてしまった。花道が呆れたように一同を見回す。
「さっきからおまえら…もしかして気使ってんのか?ハルコさんが結婚したことならもう知ってるぞ」
「おっ…」
「そ、そうか…」
「おまえらなぁ、オレだってさすがにいつまでもジュンジョーな少年じゃねーぞ」
 もっとも相手がルカワだったらどうなっていたか分かんねーけどな!と豪快に笑う花道に、若干反応に困って顔を見合わせる。昔他の選手や大会関係者の前で流川と大喧嘩になったと聞いた。それ以後ふたりの関係がどうなっているのかは誰も知らなかったが、本人の様子から察するに和解(元の犬猿の仲に戻るのを和解と呼んでいいならだが)したのだろうか。

「そういえばよ、向こうの彼女はどうしたよ?続いてんの?」
「ん、振られた」
 野間の問いに、花道はあたりめを噛みしめながら淡々と答えた。
「マジか」
「てことは今ひとり身は大楠と花道とオレかぁ」
「洋平はともかくよぉ、高宮に裏切られるとはな」
「仲良くしようぜ花道~」
 誰と誰が付き合ったとか誰が誰に告白したとか、そういうのが一大事だった時代はとうに過ぎていた。30にもなれば周りの奴は当たり前に結婚したり子供ができたりする。昔は仲間内で打ち明け合うような秘め事だったはずが、職場の挨拶代わりに「二人目はまだか」なんて聞かれる環境に身を置くうちに、すっかりありふれた話題になってしまった。二十歳になるちょっと前に洋平に子供ができた時はさすがに仲間たちにも驚かれたものの、今となっては高宮と洋平は家族持ちで大楠はバツイチだ。花道が振られたくらいで紙吹雪が舞うことはもうない。それが望ましいことなのかどうかはわからないが、そういう風にしてこの10年余りの間にすり減るように形が変わってしまったものは多分、思ったよりもたくさんあるのだろう。

 やがて店に出なくてはならない時間が近づいた高宮が腰を上げた。シーズンが始まるまでは時間があると言う花道に向けて、また飲もうぜ、次は高宮の店でなと言い残し、野間と大楠も高宮の車に同乗して帰っていった。洋平は方向が逆だというのを理由にひとり残って、花道宅のもろもろの片付けを少し手伝うことにした。

「だれも聞かねえんだな、なんでこっち帰ってきたか」
 スーツケースを荷ほどきしていた花道が、こちらに背を向けたままひとり言のようにつぶやいた。
「…訊く必要あった?」
 宴会の残りの食品を台所の引き戸の中にしまう手を止めて、記憶の中より一回り大きい背中に向けて問い返す。
「お前が向こうで頑張ってきたのもすげーと思うし、こうして帰ってきてくれたのも嬉しいよ俺らは」
―――洋平はほんと優しいなぁ。昔っから変わんねぇ」
「ほんとのことだもん」
本当だ。どういういきさつで、どんな決断とともに帰ってきたのだとしても、それが必ずしも前向きなものではなかったとしても、長い間交流が途絶えていてさえ。バスケをやるお前もやらないお前も、俺らには大事な桜木花道だ。

「彼女と別れたのなんで?長かったんだろ」
「それは聞くのかよ」
 花道はこちらを振り向かないが、声に笑みが混じっている。洋平が結婚と子供のことを報告したときに何も聞かれなかったのに、今花道が別れた理由を問うのは不公平だろうか。
「別に話したくないならいいよ」
「いや、いい。日本に帰るって言ったら付いていけないって言われてよ。おやじさんがちょっと前に病気してて…あ、おやじさんていうのは俺の大学時代のコーチなんだけど、それは話したっけ」
「うん、前会った時に聞いたよ」

 最後に会ったとき―――花道が日本代表としてアジア杯に出場するために日本に帰ってきたとき、今日のように集まった洋平たちに報告してくれた。自分とあまり変わらないくらい大柄で、高校までバスケをやってたひとつかふたつ年上の彼女。

「そのおやじともしばらく一緒に住んでて。すげー世話になった人だし、バスケ辞めて一緒にいる道もたぶんあったんだけど」
 背中越しで見えないが、花道は手を止めて一点を見つめているようだった。こういう時に花道がどういう顔をしていたか、洋平はもうはっきりとは思い出すことができない。
「でも、帰ってくることにしたんだ?」
 花道はこちらに背を向けたままこっくりとうなずいた。
―――日本帰るって言ったらこうなるの分かってた」

 それでも花道はこの町へ帰ってきた。何のためにと問うまでもなくきっとそれは、バスケをやるために。

「おかえり。帰ってきてくれて嬉しいよ。みんなそう思ってるぜ」
丸まった背中に伸ばしかけて宙に浮いた手を引っ込めながら、洋平はもう一度そう伝えた。

  *  

「引っ越し先決まったら教えろよ、手伝うから」
「おう、ありがと洋平」
 おやすみ。今日はゆっくり寝ろよ。そう言って、マンションのドアが閉まるのを見守った。その間花道もまた、ドアの奥からこちらを見ていた。ふたりのあいだでガチャンとドアが閉まって、それから洋平はゆっくりと息を吐きだした。

 花道がこの町に帰ってきた。まだなんか信じられないけど、本当にちゃんと花道だった。たぶんもう、冗談言っても前みたいな頭突きはしてこないし、「なぁ、よーへー」とわずかに甘えが滲む声で呼ばれることもない。花道は洋平がよく知ってる懐かしい花道に違いないけど、自分で道を選んで出会いも別れも経験してきた大人の男で、知らない町で13年間を生きてきた花道だった。それでも、これからはその気になればいつでも会える距離にいる。

 花道宅からの帰路、ケータイが震えて大楠からのショートメールが届いた。
『もう帰った?』
『うん、さすがに疲れてるみたいですぐ寝るってよ』
『思ったより元気そうだったな花道』
『だな』
『大丈夫だって』
『わかってるよ』
 ふたりとも何がとは言わない。さっきは多分、大楠たちに気を遣わせてしまったんだろうなと洋平は思った。突然帰国してきた花道を彼らが心配しているのは間違いないが、帰国の知らせを受けて以来ずっと落ち着かない洋平の気持ちもまた隠しきれていないだろう。俺がしっかりしないと。洋平は両手で頬を叩いて前を向く。自分に出来ることがどれだけあるか分からないけど、再び歩き出そうとする花道を支える役目を他の奴に譲る気は無い。久しく忘れていたあの頃の気持ちが、梅雨時のべたつく夜気と一緒に戻ってくるような気がした。

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