Seize The Star

© 2023 Seize The Star.
Designed by Utsusemi.

青の幽霊(7)

1999年8月中旬 18歳

 つけっぱなしのラジオから流れるFM放送が、南の海上を発達しながら進む台風の予想進路を伝えている。盆明け直後に納期が控えた部品の図面をチェックし終わって腕時計を見ると、時刻は夜の8時半を回っていた。金属の塊から自動車や航空機向けの部品を削り出す機械工場―――といっても、年代物の機械が3台だけのこの小さな町工場には当然のように空調なんかなくて、夏場は日が暮れた後でも座って作業しているだけでじっとりと汗ばんでくる。一日の仕事を終えるころには体中汗と油汚れでべたべたになるのが常だ。盆休みを間近に控えた今日は、休み前の棚卸と在庫整理、午後は掃除と書類仕事を片付け、そろそろ終業という頃合いになって、得意先から入った急ぎの電話で俄かにあわただしくなった。こうして突発的に舞い込んでくる仕事の多くは、短納期だったり難しい加工だったりで大きな工場をたらい回しにされてきた案件だ。業界は長らく不景気が続いていて、仕事を選り好みするような余裕はうちにはない。今回も例にもれず盆明け納品という無理な依頼を今回も受けることになり、図面だけでも完成させて夏休み返上を回避しようという上司の判断の結果、急遽残業となった。技術部総出で大まかな仕様を決めたあと、残る作業は洋平が買って出た。明日の有給はなんとしても確保したいので、今日は多少の残業はやむを得ない。小さな会社で研修らしい研修もないまま現場に放り込まれ、見様見真似で奮闘するうち、気づけば簡単な作図やチェック作業ならひとりでやらせてもらえるようになった。手抜きが上手いのが玉に瑕だが手際が良くて呑み込みが早いと、この前喫煙所で部長直々のお墨付きをもらったところだ。まだ誰にも言っていないが、少し前からこっそり資格試験の勉強も始めている。働いて金を貯めながら、手に職を付けて資格を取って。そうしたら将来どこにだって行けるかもしれないという漠然とした青写真を、18歳の洋平はひそかに描いている。

 手早く巻いた図面をメモと一緒に目立つ場所に置いて、作業台を簡単に片付けてから隣の事務所へ戻った。戸口の蛍光灯だけを残して消灯された事務所には既に誰もいない。奥の社長室と事務所を回って窓の施錠を確かめたあと、明かりのついた辺りの棚に雑に差し込まれていたファイルを開き、退勤時刻に20時45分と書き込んだ。ここにはタイムカードなどという気の利いたものはない。高校の時のバイト先の方がしっかりしていたくらいだが昔ながらの町工場ではどこもこんなものかもしれない。ひとりで残業中の不良上がりの新人が悪事を働いたりもしなければ誰かが勤務時間を水増ししたりもしないし、その代わりにカラ残業もうるさく言わない。不景気だ効率化だと口にはしても、会社全体に昭和の昔から続く空気感が漂っていて、ここはそういう古き良き世界だった。

 消灯と施錠をもう一度確認した後、鍵束を手に隣の敷地にある民家の裏手に回り、縁側から声をかける。ここには社長とその家族が住んでいる。ガラガラと引き戸の開く音がして、横手の土間から社長の胡麻塩頭がひょっこり現れた。
「洋平か。遅くまでご苦労さん」
「お疲れ様です。急ぎの注文、図面確認まで終わってます。事務所は戸締りしてあるんで後で確認お願いします」
「おう、ありがとよ」
社長に鍵を手渡すと、パタパタとつっかけの音がして社長の奥さんが出てきた。
「洋ちゃん!ちょっと待ってね。スイカがあるのよ、大きいやつが。うちじゃ食べきれないから」
「マジすか。いつもすんません。」
「いいのいいの、彼女とでも一緒に食べなさいよ」
そう言って、ウインクでもしそうな笑顔の奥さんは一度土間の奥へ引っ込み、戻ってくるとひと抱えもある大きな半玉のスイカを手渡してくれた。
「スイカすげー好きなんで、きっと喜ぶと思います」
バレない程度のウソをさらりと混入させながら、洋平は感じのいい笑顔でスイカを受け取って、社長宅を後にした。

 思いがけない土産を工場の裏口に停めてあるバイクの荷台に乗せ、落ちないようにしっかりとバンドで固定する。立派な大きさのスイカはさっきまで冷蔵庫の中でキンキンに冷やされていたらしく、触れた腕に心地よい冷たさが残っている。ビニール袋に入れているとはいえ明らかにそれと分かるが、バイクの荷台にでかいスイカを乗せて走る男が居たって別に誰も気にしないだろう。何なら夏の湘南エリアの風景には結構似合うかもしれない。高校時代をともにしたピンクのぼろスクーターの後継として就職前に買った中古のカブの荷台には、社長や先輩たちからもらった野菜や果物、煮物の鍋に一升瓶までよくくくりつけて帰った。年長者からの厚意はなんでもありがたく頂くに限る。今回は到底ひとりで食べきれなさそうな大きさだから、スイカの好きなやつが家にいてよかったと思いながらバイクのキーを回す。シートにまたがって、タバコを咥えて火をつけてからキックペダルを踏み込んだ。会社では久々に入った新人としてそれなりに気に入られている自覚がある。入社以来4カ月余りの間そうなるように振る舞ってきたのだから当然といえば当然だが、洋平本人にとっても今のところ、この町工場はわりと居心地がよかった。給料はそれほど多いとは言えないし、寮も社食もなければ40人余りの社員のほとんどはオッサンと爺さんだが、バイクが少しいじれるだけの高卒を貴重な若手として大切に育てようとしているのがひしひし伝わってくる。最近の若い奴はとお決まりの枕詞で揶揄されることもあるが、近頃では珍しい一本筋の通った奴だなんて言われることも増えてきた。学校では最後まで扱いにくいはみ出し者だったし、バイト先でも人間関係に深入りすることはなかったが、自分自身は何も変わらないまま一歩社会に出てみれば、大人たちの中で案外うまくやれているのが不思議だった。

 夏休み前とあって、行きかう車の様子もどことなくせわしない夜道を急ぐ。職場から自宅まではバイクで20分程度の距離だ。高校を卒業した春、洋平は実家から何駅か離れた場所に安アパートを借りた。それまで住んでいた団地の一室には今も母親がひとり残っている。大きな息子がいるようには到底見えないのが自慢の彼女は、洋平が高校に上がる頃には2、3日に1度しか家に帰ってこなくなっていた。洋平自身も大半を仲間のところで過ごしていたのでお互いさまではあったのだが、一緒に住んでいたと言ってもほとんど別々に生活していたようなものだ。金だって家賃以外、生活も遊びも必要な金は掛け持ちのバイトで稼いできた。だから正直なところ、洋平には今年社会に出て自立したという感覚は乏しかった。会社の大人たちから独り暮らしが大変だろうと気遣ってもらえるのはありがたいものの、いつも笑顔の裏でどこかピンとこない、”普通”から弾き出されたような気まずさが残る。
 世間一般の家族らしい生活を共にしてこなくても、あの人の今の仕事が夜職なのかどうかさえ知らなくたって、お互い何も問題なく生きていける。洋平たち親子はそういう関係だった。まぁそれでも、何だかんだ言って地元に部屋を借りたのは、唯一の身内である母親の事を気にかけていないといえばウソになるだろう。向こうがどう思っているかは知らないが、何かあった時に駆け付けるくらいの情くらいはある。だが逆の言い方をするなら、身内として最低限のつとめを果たせばそれ以上心を割くつもりはなかった。要するに洋平にとって家なんてものは最初からあってないようなものだったので、それでもこの町にとどまったのは、卒業後も地元に残るツレが多いことの方がずっと大きかった。高宮は駅前の飲食店、野間は運送会社に就職し、大楠は実家から理容師の専門学校に通っている。それぞれ忙しくしているが生活圏は以前と変わらず、退勤後だれかの家に集まったり休みの日にカラオケに入り浸ったり、高校のころと変わらない付き合いが続いている。社会に出て外向きの自分を演じているつもりもないし、本当の自分なんてものがどこかにあるとも思わないが、あいつらと一緒に居る時が一番気が休まるのは確かだ。気心の知れた仲間がいるという意味で、この町は確かに自分のホームだと洋平は思っている。

 県道を外れて駅前を通り過ぎ、速度を落としてコンビニの裏の脇道を行く。ゆるい坂道を上ったところに、ようやく古いアパートが見えてきた。2階の端の部屋の窓に明かりがついているのを確認しながらスピードをゆるめ、駐輪場の隅にバイクを停める。真夏の熱気と排気ガスに晒されてもまだひんやりしているスイカを丁重に荷台から下ろし、それから咥えていた2本目のタバコを片手でつまんで側溝の隙間に捨てた。ここしばらく雨らしい雨は降っていない。ここの下には洋平の捨てた吸い殻がきっと何本も溜まっている。屋上で吸い殻が見つかっても誰も犯人探しなんかしないような学校に通っていたこともあって、学生の間に徐々に本数が増え続けた。タバコの出費は貧乏社会人の財布に決して優しくはないが、到底辞められる気はしない。さらに就職してからは喫煙所で普段口数の少ないベテランと話したり、その気になれば上司の懐に入り込めることも覚えた。煙の味を旨いと思ったことは一度もないが、うまく世界の一部になって生きていくためには多分、こういうものの助けを借りる必要があるのだ。

 脱いだヘルメットとスイカを両脇に抱えて、カンカンと音を立てながら錆びついた鉄骨の階段をのぼる。2階奥の洋平の部屋は通路に面した窓が半分ほど開いていて、その横に設置された換気扇が一生懸命回っていた。薄い壁の向こうで炊事をしている気配がある。

「ただいま」
ドアを開けると、そこには見慣れたタンクトップに短パン姿の花道が大きな背中をかがめながらキッチンに立っていた。

「おう、おかえり!よーへーだと思ったぜ」
「よくわかるな」
「さっきバイクの音がしただろ、あとは階段の上り方」
答えながら、目線は手元のまな板に向けたまま包丁で何か刻んでいる。隣の棚に置かれた炊飯器からはコメの炊ける匂いがする。
「お前、今日は先生たちと食事じゃなかったの」
「んー、8時前には終わった。みんな年寄りだからあんま食わねーですぐお開き」
全然足らなかったから作ってるとこだ。そう言って冷蔵庫からひき肉を取り出す間にも、電子レンジが加熱完了の電子音を鳴らした。花道の調理は手慣れていて手際がいい。
「よーへーも食うよな?」
「食う食う。残業ですげー腹減ったわ。メシなに?」
「このネギはさっき帰りがけに八百屋のおばちゃんがくれたやつ。そんで冷蔵庫にトマトいっぱいあったから、天才特製マーボトマトにする。あとはささみマヨとサラダ」
「いいねぇ。てか普通にがっつり食うじゃん」
「和食は全然腹にたまらんな。アメリカ行ったら当分食えねーってんで和食にしてくれたらしんだけど、食ったかどうか分からんうちになくなった」
 安西先生と、確か奨学金のことで世話になったというバスケ関係の偉い人との会食は、お上品な会席料理だったらしい。改まった席だからといって遠慮するような花道ではないが、上品に盛られた小皿はひとくち分にも足らなかっただろう。口をとがらして繊細な料理をつまんでいる姿を想像するとちょっと笑える。
「そりゃ残念だったな。うちの会社から土産にスイカもらってきたから後で食べようぜ」
そう言ってビニール袋を差し出すと、花道は覗き込んで目を丸くした。
「よーへーの会社って最高だな!一回挨拶にいかねーと、うちのよーへーがオセワになってますって」
「いつもほとんどお前が食ってるけどな」

 風呂沸いてるから先に入っとけと言われ、お言葉に甘えて汗と汚れを流しに行く。手足も伸ばせない大きさの湯舟しかないユニットバスでも、こうして一日の終わりに誰かが迎えてくれる家で入る風呂の時間は、幸せとしか呼べそうにない気分で満たされてしまうので困る。先のことを考えると頭に浮かぶものは多々あるが、洋平は両手で掬った湯で顔を洗ってそれを振り払った。
 ふたりで生活するようになってもうすぐ2週間だ。花道がこどもの頃から住んでいた長屋を7月末で引き払うことになり、渡米までの間の住処が必要になって、洋平の「おれんち来れば?」の一言で居候させることがあっさり決まった。花道は父親との記憶が色濃い自宅を片付けながらさすがに寂しげにしていたし、洋平は洋平で1年続いた彼女と別れたばかりで、何かと都合はよかった。社長の奥さんはいまだに洋平が年上の彼女と半同棲していると思っている。もっとも、続いていたとしても花道を泊めるためにしばらく遠慮してもらうことになっただろうから、どのみち振られていたかもしれない。
 高校を卒業して以降、花道は秋の新学期からアメリカの学校に通うための準備をしつつ、赤木の所属する大学チームの練習に混ざってトレーニングに励んでいた。同じ部屋で寝起きし、朝一緒に部屋を出て、仕事から帰ると先に帰宅している花道が出迎えてくれる賑やかな生活は、慣れたころにはもう終わりが見えてきた。明後日、花道はアメリカに飛ぶ。アパートの狭い玄関は花道の大きなスーツケースに占領されていて、出入りするたびにそれが否応なく目に入ってちくちくとした寂しさに襲われた。

 風呂から上がると、座卓の上にはもう料理が並んでいた。花道の家にあったものをそのまま持ってきた大皿には、出来たてのマーボトマトとささみマヨがてんこ盛りになっている。そこへ花道がこれまた大盛りになった白米の茶碗を運んできた。
「今新しい麦茶沸かしてるからな」
「サンキュ。お前がいてくれると正直めっちゃ助かるわ」
「茶のことか?イソーローの身だから当然だ。よーへーは働いてるんだし」
「いや、毎日こんなちゃんとしたメシ食ってるの人生初めての気がする」
 以前から料理を振る舞ってもらうことは何度もあったので食べ慣れた味だったが、その時冷蔵庫にあるもので適当に作る花道の創作料理は、同じものでもその時々で少しずつ違っていて飽きない。朝食も付き合ってきちんと摂っているせいか、ここのところ心なしか体調もいい気がした。お前と一緒に暮らせる奴は幸せだなと言いかけたが、勝手にみじめな気分になってしまって口をつぐんだ。洋平自身も自炊しないわけではなかったが、ひとり分の食事を毎日作るのが億劫で外食することが多かったし、麦茶なんか自分で沸かしたことがない。花道が行ってしまったらきっとまた沸かさなくなるだろう。
「…完全に家賃以上の働きだぜ。いただきます」
「いただきます!」

 軽くしか食べないと言っていたはずが、花道はしっかり2人前くらいの量をぺろりと平らげた。目の前の大皿に盛られたおかずと一緒に白米が面白いように消えていくのは、いつ見ても気持ちがいい。食べっぷりに見惚れていると「よーへーも食え」と米の上に鶏肉をぽいぽい放り込まれる。俺はお前ほど食わねーよと苦笑しながらもありがたく頂戴する。こうしてふたりで食卓を囲めるのも残りわずかだ。いや、明日はみんなで壮行会の予定だから、今日が最後か。黙ってメシを咀嚼していると、抑えめの音量でつけていたテレビから天気予報が流れてきた。
「そういや台風来るって言ってたな。あ、ほら」
言い終わるか否かというところで、画面に天気図が映し出される。その横で真剣な顔つきのアナウンサーが説明するには、日本の南の方で渦巻いている大型の台風は、ゆるい”く”の字型を描きながら明日遅くに本州を横断することになっている。関東を直撃するわけではないのであまり気にしていなかったが、強風の範囲を示す円は明日いっぱいかけて神奈川をかすめて行くらしい。
「これ大丈夫かな?明後日の夜、お前の飛行機」
「通り過ぎたあとだろ」
「欠航はさすがにしねーと思うけど、遅れたら色々大変だろ」
「上等じゃねーか。台風と一緒に飛んでってやるぜ!」
「お前ね、それじゃあ中国いっちまうよ」
「ぬ、アメリカは逆か」
 鼻の穴を膨らましている花道にツッコミを入れつつ、洋平は飛行機が遅延した場合にやるべきことを頭の中でリストアップする。花道が本格的にバスケに打ち込むようになって以来、家族がやるようなことも含めマネージャーのような役割を一手に引き受けてきた。渡米にあたっての手続きや準備もかなりの部分を洋平や軍団の仲間で手分けしてやってきたから、花道が向こうの学校に無事到着するまでは気を抜くつもりはない。
「まー何とかなるだろ、天才の門出だからよ」
ごっそさんでした!と手を合わせて、花道は食器を下げに行ってしまった。
「何とかしますとも、天才のためなら」
つぶやいて、洋平も残りのおかずを黙々と平らげると手を合わせた。明日は思ったより忙しくなるかもしれない。感傷に浸る時間がなくなるならむしろその方が良かった。

 社長宅で貰って来たスイカをふたりで綺麗に平らげて(スイカは花道の一番好きな果物で、大きな半玉の殆どは花道の胃に収まった)、食後の洗い物はいつもどおり洋平の仕事だ。花道はちゃぶ台をどかした畳の上にうつぶせに寝そべり、耳にイヤホンを差し込んでMDプレーヤーを操作している。寝るまでの時間、こうして英会話の勉強に励むのが花道の日課になっていた。ゴムのプロテクターが施された銀色のMDプレーヤーは、ずっと英語の勉強を見てくれていた晴子と彩子のふたりが花道に贈ったものだ。手元のケースに収められた10枚以上のディスクにはラジオ英会話や図書館で借りてきた教材がぎっしりダビングされていて、こちらは石井たちバスケ部の同級生の力作だった。花道は目をつぶって集中し、耳から入って来る音をブツブツと復唱している。
 花道が行く予定のプレップスクールに去年から通っている宮城曰く、バスケはともかく英語の授業についていくのがとにかく大変らしい。プレップスクールとは日本でいうところの予備校のようなところで、高卒後の学生が大学入試の準備のために勉強する場だ。スポーツ留学の学生とはいえ、同じレベルの授業についていかなくてはならないそうだ。バスケと日常会話はボディランゲージと笑顔でなんとかなっても、日本語ですらおぼつかない勉強を英語でクリアするのはかなり高いハードルなのは想像に難くない。花道は宮城の話を電話で聞いて、高3のウィンターカップが終わるとすぐに奨学金制度への応募と並行して勉強を始めた。英語だけではない、数学だって受験を終えた佐々岡たちに教えてもらいながら、小学校や中学校の内容から始めて長年の遅れを少しずつ取り戻してきた。あの花道が、だ。花道も宮城も私設の奨学金制度に合格してこの道を掴み取ったわけだが、本当の挑戦はきっとここからだろう。付け焼刃だろうがなんだろうが、持てる武器は全部持っていくしかないし、周囲の人間はそのために惜しまず協力してきた。洋平たちだけでなく、皆が花道の挑戦をめいっぱい後押ししてきたのだ。弱小の湘北高校を全国大会常連高に押し上げた元ドシロートは、高校3年間で県外まで名の知れたエースプレーヤーに成長し、世界のバスケに挑戦するという夢と周囲の期待を背負ってアメリカに旅立とうとしている。一緒につるんで喧嘩に明け暮れていたころからすればずいぶん遠くまできてしまったなと思うが、花道はこの先もっともっと遠く、洋平の手なんか届かないところへ飛躍していくだろう。

 片付けを済ませて寝る準備をしてしまうと、特段何をするでもなく渡米前の貴重な夜はいつも通りに更けていった。明日は軍団で集まって、何事もなければ明後日の夜には花道は行ってしまう。飛行機を遅らせるかもしれない台風が海から運んでくる湿気のせいか、エアコンの無い洋平の部屋は扇風機の回転も空しくいつも以上に寝苦しかった。迷った末今夜も全開にしたままの窓からは、遠くを走る救急車の音がかすかに聞こえてくる。洋平はソファベッドに寝そべって町の音と花道のたどたどしい英語にぼんやり耳を傾けながら、スタンドの明かりに照らされた横顔を眺めた。1DKのアパートの6畳間は、花道が寝転がるとほとんど隙間がなかった。この2週間狭く感じたこの部屋も、明後日になればさぞ広く感じられるだろう。花道をこのまま無事に送り出したい気持ちとともに、焦燥感が募っていく。このまま送り出してもいいのだろうか。せめて何か伝えておくべきことがあるのではないだろうか。親友を送り出す言葉以外に言葉にすべきものが本当にあるのか、洋平自身にも分からない。

 あぁ、無性にタバコが吸いたい。そう思った時、おもむろに花道がイヤホンを外して立ち上がった。
「なんか全然眠くならねーからちょっと走って来るわ。よーへーは先寝てろ、疲れてるだろ」
「…あぁ、気を付けて行って来いよ」
そう言い残すと花道は大股で布団をまたいで、玄関の方へ行ってしまった。こんな日に俺だって寝れねーよと思ったのも束の間、アパートのドアが閉まる音を聞くと、洋平の意識は容赦なく遠のいていった。

  *  

昔の夢を見た。

 雨の中を、洋平は懸命に走っていた。大粒の雨を掻きわける腕と脚は細くひ弱で、せまい路地の両脇に迫る建物はいつもより大きく見える。中学に入ったばかりの頃、洋平の身体は同級生の中でも一番小さかった。小さいながらに虚勢を張るうちいつの間にか喧嘩を覚え、それがまた上級生から目をつけられるきっかけになった。全速力で走る身体に、濡れて重たくなった制服がまとわりつく。肺がゼェゼェと大きな音をたてて、心臓は今にも破裂しそうだった。すぐにでもその場に座り込んでしまいたかったが、それが半殺しの目に合うことを意味するのは、雨音に混じって背後に聞こえる足音と怒号の数から明らかだ。

「待てやこのガキ!」
「臆病もんが、逃げてんじゃねぇぞ!」
 自分たちだってガキのくせに。それに臆病なのはどっちだ。中1相手にタイマン張れずに仲間ゾロゾロ連れてきやがって。悪態をつく余裕はもはや洋平にはない。この間ふっかけられた喧嘩で返り討ちにしてやった上級生が、仲間を連れて仕返しに来た。中には高校生も何人かいたようだった。大人数に囲まれて、洋平が頬に一発入れられたのを合図に散り散りになって逃げ出した。
 この辺りの隠れ場所になりそうなところはだいたい目星がついている。肩を寄せ合うように連なった長屋の間を縫って見通しの悪い細道を1度、2度と曲がり、3度目に曲がった民家の敷地に突っ込んで、そのまま建物と塀の隙間を走り抜けていく。後ろを振り向いてはいけない。足元でガチャンと音がして植木鉢か何かが壊れる音がするが、構わず垣根を飛び越えて隣の敷地へ転がり込み、目の前に現れたブロック塀に迷わずかじりつく。自分の背丈よりずっと高い塀を夢中でよじ登って、ようやくてっぺんに届いた手のひらにブツリという感触と痛みが走った。見上げると有刺鉄線が巻かれているのに気付かず思い切り握ってしまったらしい。クソ、と小さく毒づきながら、そのまま向こう側へ転がり落ちるようにして着地する。つまずきそうになるのをすんででこらえて、赤茶けた波板で囲われた小さな小屋の中へと逃げ込んだ。そのままじっと息を殺して、時間が経つのを待つ。埃っぽい物置小屋の中には、資材や肥料の袋と一緒に脚立やら農耕具やらが乱雑に投げ込まれていて、いよいよとなったら武器には困らなそうだ。殴られたりぶつけたりした身体のあちこちがずきずきと痛むが、慣れた感覚だった。何なら捕まってめちゃくちゃに殴られるのだって別に構わない。世界をめちゃくちゃにするのと、自分がめちゃくちゃになることは、洋平にとってだいたい同じだった。そう心から思うのに、こうして逃げるのは何故だろう。暴力への恐怖に勝手に竦む身体が腹立たしい。
 雨音に耳をそばだてていると、ふいに壁の向こうに獣の息遣いのような気配を感じて洋平は凍り付いた。近づかれるまで気付かなかった。一度狭いところに逃げ込んでしまうと見つかった時逃げ場がない。相手がひとりなら必ず仲間を呼ぶはずだ。その隙を狙って飛び出すか…だがうまく行くかどうかは賭けだ。腹をくくった洋平がそろそろと外を窺うと、泥にまみれたボロボロの運動靴が目に入った。そこに仁王立ちしていたのは桜木花道だった。

「…生きてたか?」
 花道は肩で息をしながら、赤いたてがみみたいなボサボサの前髪の間から洋平を見おろして、殴られて切れた唇でにやり笑った。中1にして既に高校生とも互角に張り合えるこの男は、洋平と知り合ってすぐ頼りがいのなる相棒になった。今も逃げながら何人か相手してきたのだろう、手の関節には赤く血が滲んでいた。洋平は思わず安堵の溜息を漏らして脱力した。
「死にそう。」
しゃがみこんだ姿勢から見上げ、そう言って苦笑いする。黙って差し出しされた右手を握り返すと、鋭い痛みが走った。洋平の血がべったりついた手のひらを花道が一瞥する。
「あ、ごめ…」
 慌てて手をひっこめようとしたとき、表で微かな声が聞こえた。花道がハッとして洋平の手を取り、素早く物陰に身を隠す。建物の外をバタバタと走ってくる気配が近づき、そしてまた遠ざかっていくまでの数秒、汚い倉庫の壁の陰にふたりぴったりと身を寄せ合った。雨音に混じって、あいつらどこ行きやがった、絶対逃がすなと苛立った様子の怒声が思ったより間近に聞こえた。
 数十秒くらいだったろうか、だが物陰で気配を殺している洋平には、もっとずっと長い時間に思えた。そのあいだずっと洋平は、吐息がかかりそうな距離にある花道の横顔を見ていた。感覚を研ぎ澄ませて外の気配を窺うその表情は至って平然としていたのに、握り合ったままの大きな手はかすかに震えていた。洋平は、この大きくて強い生き物の中にも確かに恐怖という感覚があることを初めて知った。それは12歳の小さな洋平にとって、驚くべきことだった。どんな相手にもひるまず向かって行く桜木花道が、自分と同じように雨の中をひとり逃げてきて、今震えながら隣にいる。自分の手のひらから流れる血のぬめりとともに伝わってくるその小さな震えが、薄暗いこの隠れ家の中で、他の誰にも知られることなく洋平の鼓動と一緒に脈打っていた。洋平は身震いを覚えながら、花道の横顔から目を離せずにいた。

  *  

 気付けば全身汗だくでベッドに横になっていた。時間を確認するのも億劫だが、夜中の1時か2時というところか。 窓から差し込む街明かりを頼りに目を凝らすと、洋平のソファベッドの隣にはちゃんと18歳の花道がいた。タオルケットを抱き込むような格好で胎児みたいに丸まって、よく眠っているようだ。ここへ来たとき洋平が自分のベッドを譲ろうとしたものの、はみ出るから逆に寝づらいと言って、今もまた座布団を枕にして畳の上に直接寝ている。天才は寝る場所を選ばないなどと言っていたが、練習後に度々ロッカールームの床で寝ていたくらいだから、畳で寝るのも苦にはならないのかもしれない。
 ベッドの上で上半身を起こすと、まだ動悸がしていた。目蓋の奥には、鼓動と一緒に震える赤いまつ毛一本一本の残像が残っている。この夢を見たのは久しぶりだった。花道と出会って間もないころ、中学に上がったばかりのガキだった洋平たちは、上級生に目をつけられてはやられたりやり返したりする毎日を送っていた。入院沙汰になったり、命の危険を感じたことだって何度もある。だがあの日以降、洋平の中から喧嘩が怖いという感覚はなくなった。どんなひどい目にあったって、ヤバければヤバいほど、ふたり切り抜けるのが楽しくて仕方なかった。今思えば花道ははじめから、洋平にとって特別だった。それを自覚したのは多分、あの雨の日の埃っぽい物置きの中だ。物心ついてから他人に気を許したことがなかった自分の中に、洋平は初めて他人と繋がっていたいという気持ちを発見した。だからもう、喧嘩は怖くなかった。他の奴らとの境界線がハッキリ確かめられるほど、自分たちの間にある何かは洋平にとって特別になっていった。それは怖くて後ろめたくて、だが確かに甘い感覚だった。

 再び寝付くのを諦めた洋平は、花道を起こさないように注意しながら猫の額ほどの広さのベランダに出た。寝静まった夜の町には低い雲が垂れ込め、昼間の熱をため込んでいる。風はまだない。耳が痛くなるような無音の空気が嵐の前の静けさを思わせた。小さくため息をついてスウェットのポケットから煙草を取り出すと、隅の方に置きっぱなしのライターで火を点ける。寝起きの肺に深く大きく煙を吸い込んで、夢の余韻と一緒にゆっくりと吐き出すと、口腔内に苦い気体が満ちた。
「不味…」
この期に及んでまだこんな夢を見てしまう諦めの悪い自分がほとほと嫌になる。花道が流川の後を追って渡米を決めた時から覚悟していたのに。
 高3の秋以来、試合や練習に打ち込む傍ら留学の準備に取り掛かった花道を、誰より率先してサポートしてきたのはもちろん洋平だ。パスポートを取ったり、奨学金の書類を作ってやったり、やるべきことは山ほどあったし、金だって必要だった。洋平は思い悩む時間を塗りつぶすようにして奔走した。大楠たち3人も自分の就活や進学もそこそこにそれを手伝ってくれた。桜の季節が近づいたある日、いつものファミレスでドリンクバーの薄いコーヒーをすすりながら野間が尋ねてきた。

「お前よぉ。ついて行かねーのかよ?」
「どこに」
「アメリカに決まってんだろ」
「なんで」
「なんでって…お前、花道なしで生きていけるのかよ」
「俺が?冗談ぬかせ」
「おいおい、強がんなよ。てか舐めんな。俺らがお前の本心分かってないとでも思ってんのか」
「洋平ちゃんよぉ、また大人ぶって平気な顔してたら大楠に殴られるぞ」
 野間がからかうように言ったので、大楠がムッとした顔をした。昔の喧嘩を思い出して洋平は口角を上げた。
「そりゃあ、寂しくないって言ったらウソになるけどな」
「そんなレベルかよ?マジな話、お前と花道ってなんつーか、特別じゃねぇか。おまえら離れちゃだめなんじゃねーの」
「…さあな、そんなん俺にもわかんねぇ」
どんなに距離が離れたって大丈夫な気もするし、一日たりともガマンできない気もする。一緒にいるのが当然の日々があまりに長く続いたせいで、花道が隣に居ないなんて想像さえできなかった。

「ついて行くのもアリなんじゃねぇの?俺たちはお前がいつアメリカ行くって言いだすか、ずっと待ってるのによ」
―――あのなぁ、簡単に言うけど」
3人の顔を順番に見まわして、洋平はため息をついた。
「金も学も職もねぇ高卒がアメリカでやってくのがどういうことか分かってる?お前らだって花道の留学手伝ってて知らねーわけじゃないだろ」
「そりゃあ、まぁ」
「言葉のカベだってあるだろうけどよ…」
「そんなん問題じゃねぇよ、まずビザが下りねーんだよ。就労か留学が決まってねぇと」
「仕事くらい何とでもならねぇのかよ」
「なるかもな。でも今の俺じゃあ何ともならねー見込みの方がずっとデカい。じゃあ留学するか?俺みたいなやつに奨学金が出ると思うか?」
「ねぇのかなぁ、日本中探したらそういう奇特な奨学金」
底辺校の不良を支援します、みてーなやつ。高宮が意気消沈した声でつぶやいたのに哀れみを誘われて、洋平はねぇよ、と笑った。
「自分の面倒も見れないような奴がノコノコ花道のバスケ留学について行けるかよ」
 ダメ押しにそう付け加えると、3人とも押し黙ってしまった。洋平だって皆が考え付きそうなことはあらかた調べつくした。しかし本気になって探せば探すほど、異国で花道の傍にいられる道はどこにも見つからなかった。

 俺が女だったらな。そしたらいっそ結婚でもなんでもして、帯同ビザが出るかもしれないのに。ついて行くのに必要だって言ったらあいつ、うっかり入籍しちゃいそうだよな。しないかな、さすがに。

 ずいぶん前に決着をつけたはずのに、心の底でまだ未練がある自分の諦めの悪さがいっそおかしかった。世界中が眠りの中にいるこんな夜中なら、少しくらいあり得るはずもない「もしも」を夢見たって許されるだろう。今の自分がアメリカへついていくことが限りなく不可能に近いのは重々分かっていた。それでもなお、ずっとこいつのそばに居たいと思ってしまったのを、なかったことにはできなかった。だから洋平は、今は無理でもせめて数年後に望みを抱いて、限られた選択肢の中から手に職をつけられる職場を選び、かつてなく真剣に仕事と勉強に励む日々を送っている。きっぱり諦められた方が楽なことだってある。存在するかどうかさえ分からない微かな希望に、自分は一体いつまで賭けていられるのだろうか。短くなったタバコの最後の煙を眠る町へ向けて吐き出すと、ベランダの手すりに押し付けてもみ消した。

  *  

「よーへー。おい、よーへー起きろ」
 明け方、うとうとと浅い眠りの中に居た洋平は、耳元で囁く花道の声に起こされた。

「んー…」
寝返りを打って声の方に顔を向ければ、薄明りの中で身体を起こした花道がこちらを覗き込んでいる。片目だけなんとか持ち上げたまぶたの隙間から枕元の時計を確認して、洋平は呻いた。
「んだよぉ、まだ5時じゃん…はぇぇよ…」
「起きろよーへー。出かけるぞ」
「むり、どんだけ元気なんだよ…もうちょい寝かせて…」
「だめだ。今日しかねぇ」
その言葉が、枕に顔を押し付けて丸まっていた洋平を強制的に覚醒させた。そうだ、明日になれば花道は空の上だ。今日しかない。しかし台風が近づいてきてるんじゃなかったか。
「向こうには海がねぇ。だから今から海行くぞ。洋平のバイクで」
「…は?」
「急げ、風強くなってきたぞ。台風が来る」
「は!?なんで今なんだよ?ってかいつも言ってるだろバイクには乗せねぇって」
「いいだろ、今日だけトクベツだ」
「勝手に決めんな!大事な時にケガでもさせたら…」
 断固拒否を貫こうとする洋平を、花道はひたと真正面から見据えて訴える。
「よーへー、頼む。連れてってくれよ」
「…。」
「…な?」
―――ッあーーもう!!」
 花道はずるい。こうして本気で頼めば洋平が断れないのを知っていて、ここぞという時にこの手を使ってくる。風がヤバかったらすぐ引き返すことを約束させて、寝起きの洋平は花道とふたり部屋着姿のままで外に出た。

 まだ薄暗い空からは雨粒こそ落ちてこないものの、それなりの強風が一面に広がる雲を異様な速さで押し流していて、洋平はニュースも確認せずに出てきたことを少し後悔した。一つしかないヘルメットを花道にかぶせて、昨日はスイカが鎮座していた荷台兼後部座席にまたがらせる。多少尻がキツいかもしれないが、10分程度の距離だから我慢してもらうしかない。花道がバイクに慣れていないのはもちろんのこと、洋平だってこんなにデカい奴と二人乗りするのは初めてだ。中学の時に無免許で2人乗りどころか5人乗りしていたスクーターとは訳が違う。
「いいか。重心は俺に預けて、できるだけ身体低くしてバイクから離れるんじゃないぞ。あと、両手は絶対俺から離すな」
強めに言い聞かせてからメットのバイザーを下げてやり、自分はノーヘルのままでハンドルと花道の隙間に滑り込んだ。ドライバーの身体より重い荷物を後ろに載せて走るのはかなり危ない。ましてこの風だ。こんな日でもなければ金を積まれてもやりたくないツーリングだったが、後部座席からしがみつくような恰好でじっと発進を待つ花道の体温を感じながら、洋平は半ばやけくそ気味にスターターを蹴った。

 いつもの半分くらいのスピードで誰もいない道をゆるゆると走る。ようやく海岸沿いの県道に出ると、東の水平線と分厚い雲の隙間を日の出が真っ赤に染め上げようとしていた。むき出しの耳元を風が直接ごうごうとなぶっていく。縦横無尽に向きを変える強風の中でバランスを崩さずにいるのはやはりかなりの集中力を要する。セットしないままの髪が風に踊って鬱陶しい。休日の早朝とあってほとんど車の影はないとはいえ、たまにトラックや乗用車がフラフラ走る二人乗りバイクを迷惑そうに追い抜いていく。大型のトラックが横をすり抜けていくと風圧に吸い寄せられそうになって、そのたび洋平は内心ひやっととした。ハンドル捌きひとつで後ろのバスケットマンと心中ってことだって十分にありえる。考えたくもないが、そういう可能性を自分の手に握っていると思うと頭の片隅に高揚感に似た昂ぶりを感じて、手のひらがじっとりと汗ばんだ。花道は、後部座席にまたがるには長すぎる脚を折りたたんで、洋平の腹に腕を回して言われたとおりぴったりと身体を寄り添わせている。しばらく走って慣れてくるとカーブで洋平の身体の動きに合わせてうまく体重を乗せてくれるようになって、はじめほど走りにくさを感じなくなってきた。誰もいない海岸の道を、渦巻く風に逆らったり押し流されたりしながらふたり進んでいく。

「花道!!」
 ためしに大声で呼んでみた。背中にぴったりくっついていた頭がわずかに動いて、それから「きこえねー!」とがなる声がヘルメットの中から微かに聞こえた。何か言ったのは分かったようだが、メット越しにこの風では花道がこちらの声をちゃんと聞き取れるはずもない。それを確認すると、洋平は海から吹き付けるひときわ強い風を全身に受け止めながら、喉に引っかかった言葉を蹴り出すようにして思い切り叫んだ。

「行くなよ!アメリカなんか!!」
「え、なんだ?」
「どこにも行くな!」
「全然きこえねーよ!!」
 洋平が放った声は、誰の耳にも届くことなく風のうねりの中に吸い込まれていく。
言ってやった。相手に届かないように、それでも言葉にして世界へ向かって投げつけた。
花道に後ろから抱かれ走りながら、洋平は赤く染まった空を仰いで笑う。

 なんとか無事に目的地の海水浴場に辿り着いた頃には、朝焼けは終わってどんよりと薄暗い海岸線が広がっていた。洋平は砂浜へと降りる道端にバイクを停め、先に立つ花道に続いて誰もいない波打ち際へと下りていった。湘北校区から二駅ほど離れたその海岸は、かつて洋平たちがインターハイの旅費を稼ぐべく海の家でのアルバイトに励んだ場所だ。高校を卒業してから、この町のどこに行っても仲間たちとの記憶に彩られていることに気付かされることが増えた。手の中からなくなって初めて分かることが、多分この世には多すぎる。
「せっかく遠出したのにちょっと遅かったな。いい時間が終わっちまった」
「いいんだよ、別に日の出見に来たわけじゃねぇし」
太平洋はアメリカとつながってるからな。風に吹かれながらそういって花道が指さした先には、黒い水面いっぱいに三角の波が立ち、時折風に吹き上げられてあちこちに白い飛沫が上がっていた。洋平は、タンクトップをバタバタとはためかせながら海に向かう大きな背中を眺めた。

「オレ、もうすぐこの海の向こうに行くんだぞ」
「…そうだな」
「俺は!!日本人初のNBA選手になるぞー!!」
花道は水平線めがけて思い切り叫んだ。その声は風の音に負けず砂浜に響き渡った。

「ルカワよりも!誰よりも先になるぞーーー!!」
そう叫んで笑顔でこちらを振り向いたので、洋平も後ろから海に向かって叫んだ。
「おぅ!絶対なれよーーーー!!!」
「絶対なるぞーーーー!!」
「なれるさーーーー!!!」
「まかせとけーーーー!!」
「「天才だからなーーーー!」」
最後の言葉が見事に重なって、ふたりは顔を見合わせ笑いあった。

 いよいよ風が強くなり、雨を連れてきそうな黒雲が見えてきたのですぐに帰ることになった。何しに来たのかよく分からないけど、花道がしたかったことをやり残さず出来てよかった。そう思いながらバイクに戻ると、ヘルメットをかぶりながら花道が尋ねた。

「そういや洋平、さっき何て言ったんだ」
 花道に聞こえていなくて良かったと思った。多分、本当に良かったのだろう。
「いや。頑張って来いよなって」
 花道の目がまっすぐに洋平を見下ろしていた。嘘と本当と、祈りと諦めを織り交ぜた洋平の言葉は、ちゃんときれいなまま花道に届くだろうか。

「なるんだろ?NBA選手に」
「おうよ」
「行って来いよ天才。お前ならなれるさ」
 見上げた花道の瞳は揺れていた。その瞳の奥には確かに不安と寂しさが隠されているのが洋平には分かる。あの物置小屋の中でつないだ手の震えと同じように、そのことを知るのは世界で自分ひとりで、それで十分だった。洋平は何も言わず微笑みを返した。

 翌日の夜遅く洋平たちに見守られながら、花道を乗せた飛行機は予定通り台風一過の星空へと飛び立った。長く激しい嵐のような花道との日々は、終わってみればまるで夢の中の出来事のようだった。記憶の中へ遠のいて詳細がぼやけていくにつれ、その輝きは薄れるどころか一層強く心を惹きつけた。それは後の洋平にとって完全に誤算だった。

  • WaveBox
NEXT RETURN

MENU